双極性障害・ASD・ADHD

生活上の双極性障害への工夫について

精神疾患を持つ人の自己決定

お盆の間は、夫が大学に行っている。

 

 

夫は、大学を楽しんでいるようで、帰ってからレジュメを見ながらいろいろ話してくれる。それが楽しみだ。勉強ができる喜びでいつもより生き生きしているように見える。

わかりにくいけど、一緒に暮らしているからなんとなくうきうきしているのが伝わってくる。

 

昨日は、尊厳死安楽死についてだったようだ。

今日は、医事法の精神医療の部分らしい。

 

精神疾患を持っている人の自己決定はどんなふうに法律で処理されるのか、とても興味深い。うつや、双極性障害は、気分が意思をゆがめてしまう病気なので、それが本人の意思かどうか、自分でも、判断しづらい。

鬱の時には大きな判断をするなというけれど、私の場合、常に躁か鬱の輪廻にいるので、それを言うと、いつ判断していいのか、という問題がある。

正常な時がないから、判断に適した時もない、とするなら、病気の長い時間を、自分の意思決定なしに暮らさないといけなくなる。

 

それでは、自分の人生を生きられなくなってしまう。

躁鬱の困ることは、私の場合、性格に及ぼす影響が大きく、考え方も、言動も、別人みたいになってしまう。それでも幹になるようなものが同じだから、一つの人格として認識できるけれど、それも、何とか出来るという感じだ。

鬱の時には卑屈になって、自分がダメだと繰り返して、ぐじぐじいってしまう。

 

 

逆に、躁の時には、よく考えて判断しているつもりでも、後になって振り返ると、衝動的に、破れかぶれのようにふるまっていて、後悔することもよくある。だいたい、後悔し始めるのは鬱のサイクルの始まりだから、どこのところで折り合いをつければいいのかわからなくなる。

 

気分が及ぼす影響で、意思が変わってしまうことはよくある。気分が変調する病気だから、判断が自分でも信用できない。

 医者やカウンセリングで、病気にひっぱられた考え方を元に戻してもらうことで、立ち止まる習慣をつける。

 

 

自分で考えたから後悔しない、というのはありえない。後悔ばっかりしている。

でも、たぶん、他の人だって、後悔しないように心を決めているだけなんだろうと自分を慰めている。

ただ、間違った判断でも、しないよりもましだから、するし、間違った判断でも、尊重してもらうと、自分の人生だ、という感じがする。

自分の人生の主人公だ、という感覚は、自分の人生の舵とりを掌握している、という部分からはぐくまれている。ここでいう、「人生の主人公」の言葉の意味は、時間や判断を自分でコントロールできているかどうか、だ。

他の人は、自分の時間や判断をコントロールできているかどうか、どのくらい気にするのか、まったく見当がつかないけれど、私はそれができないと本当にゾンビになったような気がする。把握して、コントロールしたい。

 

流されるのしても、流されていることを自分で判断した、という過程があるからこそ、生きている感じがする。

人に支配されていては、生きている意味が失われてしまう。生きている実感がない。

五感も働かなくなって、死んでしまいたくなるほど苦しい。触ったものの感触も、何かビニールをはさんでいるみたいに、遠くなる。音も遠くで聞こえるようになる。

 

自分がつかんだ現実でないと、だんだん自分が生きているのか、それともすでに死んでいて、誰かの夢を生きているのか、わからなくなる。

 

だから、私にとって、自分の決定というのはとても大切で、人生の質を変えるものだ。

 うつ病双極性障害の人の自己決定が、気分の影響を受けて、間違っていた時に、取り返しがつくような環境であれば、それが可能になる。

そのためには、自分の病気を把握して、人に伝えて、力を貸してもらうことが大事だ。

これは、頼りっきりになるという意味じゃなくて、こちらができることはする。相手のためにできることがあればする。

自分の病気に周囲を巻き込まないために、相手の安全を守るために、自分の病気の状態を伝える。

相手は、病人と没交渉になることも当然選べる。けれど、周囲にいる限り、お互い病気の影響は、免れないので、そばにいるひとには、自分の情報を伝えて、お互いハンドリングできるようにするべきだ。今、現実に「接してくれる人」はいるので、その人たちを病気という台風に巻き込まないようにしたい。

無理をさせているのは本当に申し訳ないし、どうしたら償えるのかわからないけれど。

(そう思うそばで、発症の原因になった人たちは、何にも悩んでないし罪悪感もないんだなと思うと脱力しそうになる)

 

 

ただ、巻き込まないのはたぶん無理なので、安全に巻き込まれて、うまく飛ぶ方法を一緒に考えたらいいかなと思う。

 

 

「そばにいる人」に、病人と関わるメリットは、一見なさそうだけれど……。だから、生きていて申し訳ない、という気持ちになることもある。

 

だからといって、わたしが誰にも迷惑をかけたくないからと引きこもって一人で生きていても、結局迷惑は掛かるし、社会というのは、そういう弱い個体を生かすために存在するから、それは考えても意味がない。

 

そう、社会は弱い個体が生きるためのコストやリスクを分散させて、なるべく多くの種類の人間を生かすために存在している。それが人間の生存戦略だから。

なので、その進化の過程で生み出された自分のような人たちは、やっぱり生きるべきだし、まわりもあきらめてそういう人もいるだなと思って、こっちに慣れてもらいたい。

冗談みたいだけど。そして、現実に気分障害の人と関わっている人にはそんなのんきな話じゃないのもわかっているけれど。

気分変調をやりすごすやり方は、「普通の人」にも使えるんじゃないかと思う。

 

こっちが提供できるのは、病気を生き抜くためのノウハウくらいしかないけれど、それでも、私のことを面白いという人はいるから、多分面白いと思う。

 

そもそも、障害者や病気の人も生きられるような社会じゃないと、いわゆる普通の人や、元気な人も生きにくいはず。だって、元気な人なんていないから。ちょっとずつみんな不健康だから、それを認めて、不健康でも生きられる社会を作ったほうが生きやすい。建前では元気な人を基準に設計されている社会だけど、みんな元気じゃないものね。無理はやめて、基準を低くしよう。

 

精神疾患を持つ人の自己決定が取り返しがつくくらいの緩い世の中のほうが、みんな楽なんじゃないかな。