双極性障害・ASD・ADHD

生活上の双極性障害への工夫について

#世界自閉症啓発デー に関して

私はASDと診断されている。

 

 

ASD単体ではなく、疾病が組み合わさっている

 

ASD単体よりも、双極性障害ADHDの多動が組み合わさって、困っていることが多いと思う。

こだわりと衝動性、多動が組み合わさると、火のことを忘れて火事になりかけたり、散らかしてしまったり、多額の買い物をしてしまったりする。イライラして、かんしゃくを起こして、叫びだしてしまうこともある。自分で自分のことを許せなくて、たたいてしまうこともある。夜中にひたすら模様替えをしてしまうことを一か月続けることもある。寒暖の差にも弱く、いつも疲れ切ってしまっている。同じものをずっと食べて、栄養が偏り、太ってしまったこともある。

 

ASDだと空気が読めない、だとか、アスペとか、ガイジだとか心無い言葉を使う人がいる。

でも、実際には、そういうことを言う人ばかりじゃなくて、理解してくれる人もいる。

私は今、アルバイトだけれど働いている。

塾講師の仕事は、環境や場面、会話内容、目標が限定されていて、人も毎回同じ、時間も夕方から夜で短いから勤められるのだろう。

自分の困難を伝えるすべを身に着けた

私はおそらく積極奇異型だった。人間関係には苦労してきた。周りの人に迷惑をかけていた。しかもADHDもあるから、衝動的に人と関わるので、事態を悪化させてきた。

発達が遅く、同年代の人と話が合わなかったので、年齢が高い人と接してもらうことが多かった。同年代の人に比べておそらく幼かった。

だから、それを大目に見てくれる人と仲良くさせてもらっていた。

 

けれど、私は積極奇異だったからこそ、人に迷惑をかけて申し訳なかったけれど、トライアンドエラーが繰り返せたので、自分が困っていることを伝えるすべが磨かれ、大人になってから支援とつながれた。

 

それまでは、散らかった部屋に住むと、混乱して具合が悪くなるのに、部屋の片づけができず、双極性障害もあいまって横になって寝ていることも多かった。

外に出ると、音やにおいの刺激が強くて疲れ切ってしまう。

躁状態の時に、こだわりが強さが災いし、ADHDの多動と衝動性が加わって、同じものを何度も購入してしまい、多額のお金を使い果たしてしまった。今は落ち着いているものの、あれが続いていたら、人生が破綻してしまっただろう。

 

そうした苦労から生きのびたのは、医療と社会の制度のおかげだ。

今は、一週間に二回ヘルパーさんに来てもらい、話を聞いてもらいながら、一緒に片付けや掃除をしている。それで気持ちが落ち着いて、部屋も刺激が少ないように整頓できている。

脳の特性

私には脳に特性があって、多くの人とは違うものの考え方や、感じ方をする。自分でどう違うのかわかれば、対処もできるけれど、脳が違うので、いろいろなことを観察して、考えて、対処するしかないので、時間と労力がかかる。だから、自然にできる人に比べて、疲れやすい。

流れに沿うことができなかったり、場にそぐわない行動をしてしまって、誤解を受けたこともある。

その誤解を解くために、障害のことを話せばわかりやすいのかもしれないけれど、障害について、差別をする相手だったらと思うので、障害のことは出せない。また、障害に理解がなければ、障害を言い訳にして、自分の失敗をごまかそうとしていると思われるのも怖い。自分でも、障害があるから仕方がない、ということと、障害があるのだから大目に見てもらって許してもらおう、ということが、ずるさと言われてしまえば、そうかもしれないと思うし、どう違うのかわからなくなるので、黙っている。

 

私には幸い得意なことがあるので、それを武器に世の中を渡っていくことが何とかできそうだ。でも、得意なことがなくても、幸せに暮らせることが理想だと思う。それは、ASDであってもなくても、そうだとよい。今はそうじゃなくても、いつかそうなるとよい。

ギフテッドという言葉について

よく、ギフテッドという言葉で、自閉症でも、得意なことがあればいい、という風に考える人もいるけれど、それは「自閉症でも特技があれば特別に許してあげよう」という考えと近づきやすく、私は「役に立たなければ世の中に必要ない人間なのだ」というメッセージに受け取ってしまうので、ギフテッドという言葉がつらい。

自分が特別な人間じゃないとわかっているので、才能があるはずだと期待されることがつらい。今は、そういう人が身の回りにいないし、そもそも自閉症だと打ち明けている相手が家族と職場の人と医療と介護の人だけで、全員理解があるので、才能を期待されることがないのでとても気が楽だ。

 

人のいいところを見ようとすることと、ギフテッドじゃないのかと才能を探すこととは、似ているようで違う。

前者は、あるがままを受け止めるというスタンスを感じるけれど、後者は役に立てば障害を許してあげるというスタンスに感じる。

病院に行けという言葉が悲しい

本当に、障害があって、足りない部分があっても、それを補うならば存在を許してやるというスタンスの人はいる。いるし、何かあると、人に「病院に行け」という人もいる。

この言葉は、精神疾患の人を区別して、さらに、病院に行って隔離したいという願望を感じる。また、障害者を病院に丸投げして、社会がもつ責任を果たさない。病院に行けば、障害は治るという誤解もあるので、病院に行けという言葉は苦手だ。

私は、存在を許してもらう必要はないと思っている。

確かに、障害ゆえに、迷惑をかけたり、負担をかけたりすることは間違いなくある。配慮を求めることは、求められる人にとって、負担だろう。

だから、こちらも、求める相手に対して、親切な気持ちや、前向きな気持ちをもって接する必要があると思う。

それは、前に書いたことと矛盾しない、お互い気持ちよく暮らすための工夫だと思う。

あえて、私たちと書くと、私たちは、確かに存在していて、存在を消すことができない。存在を消すことができない者同士が、共存するためには、お互いの理解が必要だ。

だから、私は、ASDではない人の特性や、苦労を知りたい。その中で、自分との違いが分かれば、その違いの溝を渡れる日が来るはずだ。

 

結婚式の時に、祝福の場なのに、結婚する人たちへの皮肉を言ってしまって、友達にたしなめられたことを今でも覚えている。私への理解と思いやりを感じた。嫌悪はなかった。私は時間がかかったけれど、それが悪かったとわかった。

 

普通の人に擬態するのはとても疲れる。脳の違いをごまかして、観察と記憶をもとにトレースする。普通なんてないという人もいるけれど、私から見ると普通はある。

私は、世の中の多くの人と脳が違う。それぞれ脳の違いはあるけれど、大きく違う。そうした目線から見ると、普通はあると感じる。私は自分を普通から外れていると感じる。

それは、寂しいことではあるけど、悲しいことではないと思う。

自分の障害は自分に合っていると感じる

私は自分の視点を面白いと思う。そして、人から興味を持ってもらうきっかけになっていると思う。ネットでは、自分の障害を明らかにしているので、自己紹介の代わりになる。時には、それが人を惹きつけるフックになっているとさえ思う。

障害があってよかったなんてとても思えることはないけれど、自分で障害を乗りこなしていくことはできると思う。

年齢の効果によって、感覚や感性が鈍くなり、そのために苦しんでいたことが薄らいできた。

双極性障害は二次障害だ。二次障害になると、人生の終わりだみたいに言う人がいるけれど、良くも悪くも、まったく終わりではない。そのあとも人生は続く。

善い面を言えば、自分なりに楽しいことも喜ばしいこともある。できるようになって嬉しいこともある。それは、できないという状態があるから嬉しい。できないことが多い人のほうが、喜びの純度は高いと思う。できるのが当たり前の人は、何かできたからと言って、いちいち喜んでいないんじゃないだろうか。

 私の障害に向き合ってくれる主治医の先生、心理士さん、ヘルパーさん、私の障害を知らないけれど大目に見て一緒に時間を過ごしてくれる友達がいて、私は幸福に暮らせている。

大変なことも多いけれど、やりくりができるならばそれでよいと思う。

大切なのは人だ。人と関わるのが難しい障害だけれど、だからこそ、良い出会いも多い。人に救われている。