昨日は病院に行き、診察を受けました。今日書くことは、カウンセリングや診察で話したことが中心です。
その中には、出産についてや性暴力被害についての考えも書いてあります。
最近は、何かするのにも時間がかかるということを言ったら、「発動性が下がっている」みたいなことを言われました。
鬱っぽいときに過去をじっくり振り返ると、鬱のフィルターで過去を評価するから、それほどひどくないことでも、まんべんなくひどい出来事だったと塗りこまれてしまうということを言われました。
認知というのは、認識だけじゃなくて、記憶や観察することにも関係があるらしいのですが、鬱の時には鬱のフィルター以外はオフになっていて、何を見ても鬱フィルターを通して認識するから、何もかも暗くなるそうです。
また、認知が向上した点としては、発作が起きる前に、前兆を察知して薬を飲んだり、気分転換して、気を取り直すことができるようになりました。
これは、薬のおかげではなく私自身のスキルだから服薬状況が変わっても残るものだと言われました。
そろそろ次の子を考えていますので、そうなったときに服薬を続けるかどうか、という相談をしました。
私はリスクがあっても飲みたいと思っています。それは、妊娠を期に全部の薬を切ってしまったことで、症状がひどくなり、回復するのに二年かかったからです。その機会損失や、子育てを楽しめなかったことを後悔しているので、多少のリスクはとっても、薬を飲んでおきたいという考えです。
先生は、最初、私が薬を切りたいと思っていたらしく、薬を全部やめてもいいと言いましたが、昨日話したら、飲んでいてもいいと言いました。
妊婦で実験するわけにはいかないから、対照実験できないので確固としたエビデンスは示せないものの、薬を飲むことで、影響が出ることに関して、それほど有意な差はないということを話してくれました。
妊娠で、ホルモンバランスが崩れて、健常だった人も精神疾患を発症させたり、もともと精神疾患があった人が、悪化したりということはよくあるそうです。それが劇的な症状であることも話してもらいました。
出産についての考えです。
妊娠中に薬を飲むことや、薬を飲まざるを得ないような人間が出産を望むことに否定的な人がいることは知っています。
障害がある人が子どもを持つことは、子どもが不幸になるとか、子どもにも障害が遺伝するのではないかとか、私もネットで言われました。
私はそういうことを言われるのはショックです。言われたくない言葉です。
子どもを何のために持ちたいと思うのか、問われることも本当は嫌です。それは、個人的な話だからです。
でも、万全な状況でないのに産むのは、子どもへの虐待だという人もいます。
生まれた子どもは祝福するが、生まれる前でとどめられるなら、子どもを産むべきじゃないとか、子どもを産むのは(押し付けられた)義務だから、それを拒否するべきで、権利だというのは愚かだとか、そういうことを言う人もいます。
私もなぜ子どもを持ちたいと思うのか、答えは出ません。
子どもを自分の幸せに巻き込もうとするのはよくないのかもしれません。
ただ、私は挑戦したいのです。私は自分の人生を切り開いていきたい、自分の人生を自分の意志で切り開きたいという気持ちがあります。それが無力感の罠から逃れる一つの方法だからです。
残念ながら、私の病気は、自分をコントロールすることを難しくする病気です。人生をコントロールすることも難しいです。
気分のアップダウンが、正常な判断を妨げます。
だから、私のような病気を持つ人には、判断力がないという人もいます。
でも、思うのですが、だれでも気分に影響された不完全な判断力をもって、自分の人生を決定しており、分かれ道のはざまで、どちらを選ぶか悩んで座して死ぬより、どちらかの道を選び、その景色を楽しんでこれが正解だったと言い聞かせているのです。
人生は選択の連続で、後から振り返って、これが正解だったか知りたいと思っても、同じ人間が同じ人生を送っているか対照することはできないので、正解はわかりません。
私は見知らぬインターネット上の人に、子どもを持ちたいと願うことを、どれだけ嘲笑わられても、やっぱり子供は欲しいと思います。
その理由は陳腐ですが、陳腐とは何かを言い換えれば普遍的な理由になるでしょう。
私は自分が見た景色を美しいと思っています。優しい人や、心を豊かに、穏やかにしてくれることがたくさんありました。それを喜ぶのは人生の良い面です。
良いことも悪いことも知らないままでいるよりも、良いことも悪いことも知って生きて死ぬほうが素晴らしいと思います。
なんで生きるかとなぜ産むのかは同じ理由なはずです。なぜ生きるかの答えはありませんが、答えがないまま、生きているほうが死ぬよりもましだから、死ぬことはいつでもできるから、一日ずつ後回しにすることで生きています。それは苦しみの先に、素晴らしいものがあるはずだと信じているからです。
カウンセリングで、性暴力の被害に遭ったせいで、苦しいことを相談しました。
自分の体のコントロールを失ったことが、今でも尾を引いていて、自分を気持ち悪く感じることと、その苦しさのせいで、二十代をどぶに捨てたような気がすることを話しました。
性暴力の苦しみは、だいぶ薄らいでいますが、体調を崩して二十代に得るべき経験をできなかったことは、本当にいつでも苦しく思います。その喪失感が私を苦しめています。あれほど苦しみたくなかった、苦しんだことで時間を無駄にした、と感じてしまいます。私に苦しむか平気でいるかの選択の余地はなかったのですが。
あの経験をとらえなおして、どこかに価値があるのだと思いたい、合理化したい、という気持ちがあります。あの苦しい十年間に意味がなかったのだと思うことは、本当につらいことなので、何らかの意味があったのだと思いたいのです。
たぶん意味はなく、また、意味があったところで、過去は変えられないのですが、変えられない過去だからこそ、とらえなおすことで、意味を書き換えて、自分の人生を自分のコントロール下に置きなおしたいと思っています。
私は二十代の最後に、また、暴力に遭って、抵抗するときに、左腕の神経を引きちぎられたことがあります。でも、その時は、大声を出して、抵抗もできたので、今ではそれほど心の傷になっていません。当時は、安全、安心だという感覚が失われて、恐怖で一人で外を歩けないくらいでしたが、今では平気です。それどころか、抵抗できた自分を誇らしく思う気持ちさえあります。
抵抗したことで、殺されなかったのは単に運がよかっただけだと思います。でも、抵抗するかしないかが、自分は状況を判断して行動できるのだ、という自信を得るのか喪失するのか、大きな境目でした。
私は、自分の二十代の苦しみをとらえなおすことができるだろう、という希望を持っています。楽しめなかったとは言え、二十代にやるべきことはやり遂げているので、その側面を振り返ることができたら、記憶の中にある過去の評価を塗り替えて、自分の人生は豊かだったといえると思います。
私は、「死にたい」と思うことがありますが、病気がそう思わせていることなのだ、と思って分けています。
私の人生に起きたいくつかの出来事は、ろくでもないことでしたが、それでもなお、どこかで、人生は素晴らしいことだ、これから先に必ずもっと豊かで美しく、暖かい経験が待っているはずだと信じています。そしてその経験が私を作り変えてくれるだろうということも、疑っていません。
この希望を持つということが、予期せぬことがあっても、なんとか切り抜けられるだろうと自分を信頼するために必要なことです。私には、自分の人生や体をコントロールできると感じるためには、自分の判断や、行動で、結果を変えられると信じられることが大切なのです。
将来は不確定だから、信じていても、そんな経験が待っているとは限りませんが、泥の中で咲く蓮を待つのと同じことだと思っています。
この期待や、願い、希望があるので、苦しみの中で咲く喜びを見たいと願って、今日も生きています。