買い物依存症が、今、一番解決したい問題です。
それは、買い物をしたいと思うことや、ほしいものリストを作っていること、手に入れた後の時間が、「楽しい」のではなくて、「苦しい」ということからです。
もちろん、お金の使いすぎや計画性のなさは、よくありませんが、わたしが問題だと思っているのは「楽しくない」こと。
楽しくないから、解決したい、と思っています。
解決の方法は二つあります。
買い物を楽しめるようにすること、もしくは、買い物をしなくて済むようにすること。
前者は却下です。
なぜなら、多額の買い物を、独身時代も、事実婚をしてからも一年以上も続けたけれど、結局楽しくなることはなかったのです。
パートナーは、買い物に関して、非難がましいことを言ったり、止めようとしたりしたことが、なんと一度もありません。
わたしが使う分を、自分の使えるお金を削ったり、家計簿をつけたり、節約をしたり、バイトを増やしたりして、補ってくれていました。
わたしが、ストレスを解消できて、楽しいのが一番いいからと。
しかし、情けないことに、わたしは、それでも楽しめなかったのです。
暴走する車から降りられないような感じ。焦燥感に駆られて、どうしてもこれを手に入れないといけない、今手に入れないと、もう二度と買えない、買えなかったら、人生が終わってしまう、というような妄想に近い恐れの中で、必死で「わたしは楽しいのだ、買い物をすることで楽しいのだ」と言い聞かせようとしてきた気がします。
もちろん、楽しい買い物もありました。生活を豊かにするもの、例えば、絵を買ったり、ウォールデコを買ったり、ようするに生活必需品でなかったとしても、楽しめる買い物はありました。
タガが外れたのは、親元を離れたときでした。それでも、どうしようもなくひどくなったのは、前回の離婚の前後です。
結婚、離婚で、自分で使うことなく、貯金がなくなりました。
どんなに長い年月をかけて、どんなに我慢して貯めたものでも、命と同じくらい大事なお金であっても、人に盗られれるときは盗られる、ということが身に沁みました。
それならば、使われる前に使ってしまおう、という気持ちが生まれました。
そんな以前の心の傷が、こういう形で今もあることに、驚きました。
買い物で失敗してはいけない、お金を持っていたら、盗られてしまう、おしゃれにならなくてはならない、リストを消化して、コンプリートしなくてはならない、そうした強迫観念が、わたしを買い物依存症に引き込んでいたのではないか、という仮説を立てました。
とくに、コンプリートしなくてはならない、というのは強い要求です。
わたしは、過食症でも、ほかのことでも、始めたことは終わりまできちんとやらなくてはならない、そうじゃないことは「できない」という性質があります。
例えば、筋トレを始めたら、どんなに体調が悪くても休めない、毎日すると決めたことを中止できない、そういうことです。
どうして休むことができないのかは、自分でも謎ですが、「自分が自分で亡くなる恐怖」というものが根底にある気がします。
大切なのは工夫です。一度決めたことをやり通すこと、その力をスライドさせることによって、建設的な力に変えることができるはずです。
例えば、毎日続けても、体にも金銭的にも害のないものを選んでするとか……。ヨガや体操はいいかもしれません。
買い物依存症をなんとかしようと、今までも努力してきました。
使っていい額を決める、リストを作る、買う前にパートナーに相談する……。
でも、使っていい額を決めるというのは、有効でした。パートナーに相談することは、無意味とは言いませんが、抑止効果はありませんでした。やめたほうがいいといわれても、結局は、葛藤を強めた上に、それを解消するため、買うことになりました。
リストに関しては逆効果でした。リストにあるものを買いつくさないといけないと行動が強化されてしまいました。
お金を使い果たすと、楽になります。
今、その状態です。
でも、まだ、リストが残っています。わたしは、リストを消化したい。
ネットで検索した買い物リストを全部買いつくして、リストをきれいにしたい。ほかの人に横取りされたくない、それはわたしのものだ!と、心が叫ぶのです。
まだ、買う前なのに、わたしのものを、人に盗られたくない、盗られたら、死んでしまうよりも、悪いことになる、あのショックを二度と二度と味わいたくない、という気持ちになります。
わたしは、子供時代、家族に「ださい」「おしゃれじゃない」「片付けができない」と、モノを選ぶセンス、モノを所有するセンスについて、ずっとなじられてきました。
そして、わたしは、自分の持ち物を、自分の延長のように感じます。
だから、モノを選ぶセンスや、モノを補完する能力をけなされると、自分自身をけなされた気持ちになります。
一人暮らしをして、それから解放されたいと願っても、心の中で、内面化された家族の声が自分をなじります。それを振り切るように、振り切りたくて、必死で買い物をしてきました。
でも、結局、それはわたしを幸せにしませんでした。
わたしにとって、一番大切なのは、自分が今、幸せかどうかです。
買い物は楽しい時があります。でも、買い物依存症は苦しい。
楽しくてやっているのではなくて、「やばい。買ったらやばい」と思いながら、葛藤と戦い、ほしいはずのもの、というか、チェックしたものを買うことのスリル、自己破壊のすがすがしさを味わっていた気がします。
自分を罰するために、嫌な思いをすることを選ぶ。それは、わたしがしがちなことです。
自己破壊も、気を抜くとよくします。なんとなく、すっきりして、人生のもっと重要な問題から、一瞬逃げて、目の前の自己破壊をした結果の苦痛とだけ付き合えばよくなり、人生から逃避できるからです。
依存症は、人生の重要な問題から、逃げるために、自分自身で管理できる問題を作り上げることです。わたしにとっては。
でも、その小さいはずの、管理できるはずの問題は、次第にエスカレートして、自分の手に負えなくなります。
また、双極性障害が事態を悪くしました。
わたしは、鬱の時には、動けなくなるので、かえって安心します。苦しいだけ、動けなくなるだけ、なにもできなくなるだけなので、新しいトラブルを作る心配がないからです。
でも、躁状態の時には、行動力があります。だからわたしの持っている問題を悪化させます。
わたしの双極性障害の周期は非常に早くなりつつあります。
今では一週間に満たない周期で交代します。
その周期中に、わたしは、定期貯金を下ろしてでも、買い物をします。
今だって、海の日が終われば、銀行に行って、手続きをして、お金を手に入れたいと思っています。
今は、お金がないので、リストを消化できません。
苦しくて苦しくて、つらいです。でも、苦しいだけです。お金は減りません。
リストを消化すると、苦しさと焦燥感は減らず、温存された上、お金が無くなるという恐怖が加わります。だから、同じ苦しさでも「買えない苦しさ」のほうがましです。ずっと。
現実に影響がないわけです。
依存症で、わたしが困っているのは「気持ち」と「現実」の両方の面です。
気持ちについては、使うお金がないということで、少しプレッシャーから解放されます。もっていると、盗られる前に使わないといけないと思いますから。
そして、現実については、使えるお金がないので、現実が変化しません。
それは、とても、安心することです。
今回、まだ、買い物依存症は解決しなかったのですが、よかったこともたくさんありました。
まず、完ぺきな人間はいない、失敗はしてもいい、ということをまた学べたこと。
わたしが失敗したことを公表することで、誰かが楽になったり、わからないことを納得したり、同じ悩みがいる人がいるのだ、と思ってもらえる場合があるということです。
わたしの苦しみが、リサイクルされて、誰かの「よいこと」になり、うまくいくと、その感情を伝えてもらうことで、わたしは「うれしい気持ち」という報酬を得ることになります。
それが、失敗の良い側面です。そして、失敗しながら、生きることを学んだり、味わったりするわけです。
そして、死に至る依存症を選ばなかった、わたしのセンスを信じることができる機会になったこと。自分で、困っていることを、「気持ち」に注目して、相談できたこと。
買い物をしても、楽しかったら、それでもよかったんです。でも、苦しみながら、自分が不利になることを選ぶ、というのは、なくしたいことです。
これは、自信になりました。
わたしは、FX,ギャンブル、アルコール、ドラッグ、拒食を選びませんでした。
過食、買い物は、生存率が比較的高い依存症です。過食しても、太ることの害はありますが、すぐには死にません。買い物でお金が無くなっても、破産することができます。
最悪になっても、解決の方法がある依存症を選べたことで、わたしは、自分が生きたがっていたのだ、と、思いました。自分がいとおしい気持ちになりました。
死にたいことも多いのですが、根本的には、生きていくために工夫しているのだなと。
その工夫は、死にたいほど苦しい問題から、自分をしばらく逃がすための行為で、それが今わたしを苦しめているけれど、確実に、わたしを延命してきたのだなと。
わたしを延命するための依存症だったのだと思いました。
わたしの「始めたことは最後までやり通してしまう」ことや、執着、こだわりは、おそらく、直すことができないものです。
しかし、その方向をずらしたり、行動をスライドさせることはできるはずです。
もし、それがうまくいったら「こつこつと努力できる人」になるわけです。
だから、自分の特性を理解することが大切だという話にもなるわけですが、それをするためには「していることが楽しいかどうか」を常識に囚われずに、自分の心に聞いてみる作業を怠らないことが大事だと思いました。
わたしは、買い物は楽しいものだ、だから、苦しくても、楽しくて買い物をしているのだ、どんなにお金が減ったとしても、楽しいからいいのだ、と思っていました。
でも、それが苦しかったということに気づけて良かったです。
様々なコンプレックスが、買い物依存症を招きました。
おしゃれじゃないといわれ続けてきたこと、家を片付けることが下手なこと、そういう元の家族に言われ続けてきたことを、直さないといけない欠点だと思っていました。
それがコンプレックスになり、それを解決する手段の一つとして、もしくは、そこから回復するために、買い物をしていたのだと思います。
でも、今は、わたしの心の中にしか、わたしを非難する家族はいません。
それが、大事なことです。
いないもの、ないものにおびえないで、正確に自分を把握することが、今、一番していきたいことです。