双極性障害・ASD・ADHD

生活上の双極性障害への工夫について

正常な反応としての精神疾患と表現

わたしは、精神科を受診したときに、

「頭がおかしいという表現は間違っている。あなたは、今いる環境に対して、正常な反応をしている。その結果、健康を害している」という風なことを言われた。

間違った環境にいるため、それに対する表現として、精神疾患を患っている、それは、生き物として正しい反応だ、ということ。

それまで、家族に、頭がおかしい、人格障害、と言われていた。

それについても「医者だって診断名をつけるのには、慎重にするのに、なんの資格もない人が、それをいうのは、害にしかならない。

僕は、診断名を基本的には言いません。それは、診断名を知ったからといって、困っていることがなくなるわけじゃないから。診断をつけて治るならいくらでもつけるけど、そうじゃない。

なぜ、診断名をつけるのか、それを考えることが、大事なんです」

ということも言われた。

「病気というよりも、困っていることをどうにかするか、ということが大事です。治す、というよりも、困っていることを工夫するということです」

結局のところ、わたしは、それから十年後に、診断名を知って、それを手掛かりにして、いろいろな工夫ができるようになった。

でも、診断名を手掛かりにして工夫をする、という発想がない間に、診断名を伝えられても、確かに、何も意味がないばかりか、周りにひどいことをされる原因にもなりかねなかった。

わたしが、診断名をなぜ伝えられるのか、それをどう利用できるかに十年間準備が必要だったということだ。

わたしの家族は、いろいろな意味で間違った形をした家族で、わたしを痛めつける環境であった。

わたしは、そこから逃げることが何よりも必要だった。

病気を落ち着かせるには、二種類のやり方があると思っている。

薬を与えて症状を抑えること、考え方を変えること。

まず、薬をもらって、症状自体の苦痛から、休養を取る。それから、元気になって、判断や体力がついてから、考え方を変え、危険な場所にいるなら逃げる、それが、わたしの治療だった。

いろいろな本や、映画を見た。

それは、わたしを延命した。心の栄養になった。

心無い人は、「心が健康じゃないと、悪いものを表現物から受け取る」という風に言う。

それは、偏見だ。差別だ。

今まで、精神疾患を持つ人は、そのことを理由に、発言権もなく、座敷牢に閉じ込められ、断種させられてきた。

そういう歴史がある。

また、社会にとって、耳障りなことを言う人を「普通じゃない」「病気」と言って、排除してきた歴史もある。

精神疾患は「その人が困っていること」に注目するならば、大切な概念だけど、そうじゃなく、「人を排除するため」に使われてきた歴史もある。

 

精神疾患は、たくさんの種類がある。また、その人の個性によって、症状の出方は千差万別だ。どんな人にも、偏った部分がある。誰が健康でだれがそうじゃないのかを、誰が基準となって決めるか、という問題もある。

 

 

精神疾患は「困っている」部分が症状だ。本人や、その周囲の人が、困っているから、医療と関係する。治療は困っていることを減らして、生き延びさせるためのものだと、わたしは思っている。

 

 

だから、人を排除するために、精神疾患を使わないでほしい。

具合の悪い時に、表現物に巣食われた人は無数にいるだろう。

その人が感じたことは、何一つ間違いじゃない。感じたことが、病気ゆえだとしても、それはその人の表現の一部だ。

病気自体も表現の一部だ、生きること自体もある種の表現だと。

表現にかかわりのない人はいないのだから、表現について、誰かを、精神疾患を理由に、しかも、診断する資格のない人がそれをしないでほしいと願う。

 

 

精神疾患は、特殊なことじゃない。環境が合わなかったり、大きな出来事に対応できなかったら、誰でもなる。

でも、風邪とはやはり違う。風邪を引いた人の受ける扱いと、精神疾患になった人の受ける扱いは、歴史的に違う。

だから、「心配だから」とうそをついて、人の口を封じてはならない。