ASDはときどき機械やロボットに例えられる。
感情がないと言われたことも多々ある。
でも、わたしには感情がある。
相手の意をくんで、相手の思うようにならなかったり、従わないだけだ。
察するという行為は、特にグループの中では、権力者の意をくむということだと思う。
わたしはそれの必要性も合理性も感じないので、しない。
理解できないし、そもそも、間違っていると思うからだ。
赤ちゃんを育てていて、赤ちゃんの気持ちをわかっていると思う。
気持ちはともかく、少なくとも、うれしいか、気分が悪いか、おなかがすいたか、おむつを替えてほしいかは、泣く前にわかる。
おなかがすいたら、片手をぶんぶん振るし、おむつのときは、泣く前に「あ、あ」と独特の声を出す。うんちのときには「えーい」というし、すっきりしたような放心したような顔をするから、やっぱりわかる。
とっても、かわいい。
自閉傾向を持つパートナーがいると、カサンドラ症候群になるというけれど、それは絶対になるということじゃないことも知ってほしい。
人による。
わたしたちは、お互い、何でも話し合う。
わたしのパートナーは、一緒に暮らして一年以上たつのに、いまだに自分からはほとんど話しかけない。
でも、わたしの周りをうろうろするので、はなしかけたいことが、わたしにはわかる。だから、「どうしたの?」と聞く。
彼は言語化が苦手なので、わたしが「こういうこと?こういう気持ち?」といくつか候補をあげて行って、話しやすいように協力はする。
でも、彼は、話したいと思っている。
わたしも、自分の気持ちを話したいと思っている。
そして、お互い相手の話を聞いて、相手を尊重して、相手が居心地よく暮らすことを願っている。
もし、発達障害があっても、相手をお互いに幸せに暮らすように協力するという前提があれば、ASDがパートナーでも、まったく問題なくパートナーシップを構築できると思う。
それは、ほかのカップルの経る過程とは違うかもしれない。
でも、大丈夫だ。みんなそれぞれオリジナルに作り上げていくのが家族だから。
むしろ、「こういうものだ」と話し合わずにお互いの勝手な妄想、特に、男性が自分の考えている理想や、気持ちを話さなければ、女性が疲弊しやすいのは確かだと思う。
わたしの家庭の場合は、わたしが彼の気持ちを言語化することで消耗しやすいので、代わりに、家事など体力を使うものを、彼に補ってもらっている。
気持ちを言葉にすることや、感情を扱う時の、「疲れ」「労力」をないことにしない、というのも、わたしたちにとって大事なことだ。
ASDで、赤ちゃんを持つことをためらっている人がいれば、大丈夫だと言いたい。
わたしは、産後鬱だから、行政の人がしょっちゅう様子を見に来る、保育園にも入れる、わたしの育った家庭は頼れないけれど、その代わり、頼れる人がいる。
福祉は、わたしがいい人だとか嫌な奴だとか、そういうことと関係なく、支援してくれるのでありがたい。
(よく議論になるが、本当に困っている人がどうの、というのは、結局助けたい人を助けるになりがちなので、それは福祉の意図と反しているということも言いたい)
ASDも赤ちゃんの夢を見る。
赤ちゃんはわたしをにおいで把握している。
わたしのにおいや声がすると安心するらしいので、添い寝しながら、歌を歌う。
赤ちゃんは微笑み、あたたかく、やわらかく、良いにおいがする。
ときどき泣きたくなる。