双極性障害・ASD・ADHD

生活上の双極性障害への工夫について

精神障害に必要なのは、言葉と余裕

私にはできないことがある

私にはできないことがある。

できないことはできないままか、やってもすごく疲れるからやっぱりできない、という種類のことで努力をしてもしなくても結果は変わらない、というようなものだから、それを障害と呼んでいる。
それは足が悪くて歩けない人が歩ける努力をするのに似ている、かもしれない。知り合いに関節がじわじわ固まって動けなくなる病気の人が二人いる。一人は、いつも歩くように努力しているけれど、やっぱりいつかは歩けない日が来てしまう。努力はすごくしている。だから、歩ける状態が続いているけれど、必ず歩けなくなる日は来る。歩くことを手放せなくてずっと痛みに耐えながら歩いている。
もう一人は早々にあきらめて車いすに乗った。そして、行動範囲が広がって、障害者仲間と沖縄のダイビングに行ったそうだ。
どちらがいいかとかそういうことじゃなくて、どちらにしても、失うものはあるし、できないことはある。

頑張って歩いている人には、障害と言っても精神疾患のほうがうらやましいと言われた。自由に歩けるからって。私は今でもどちらがましなのかわからない。私は歩けることを嬉しいなと思って歩いている。私は、頭の中が自由なのは体験したことがないので、どちらがましなのかわからない。

 

私は精神障害を、発達障害双極性障害の二種類持っているのだけど、周りから見ると障害者手帳を取らなくてもいいんじゃない?とか、障害者に見えない、という人もいた。(障碍者雇用の担当だった人に打ち明けたときには、言われてみたらそうかもしれないと言われたけどそれはレア)
障害者手帳を持つと「本当に」障害者になっちゃうよ、というような人もいた。でも、「本当に」障害者なんだよね。障碍者手帳を取っても取らなくても。

障碍者って、書くべきだという人もいるけれど、私は、障害者のままでいいやと思う。だって、自分にとって見たら、本当に障害なのだもの。

私は障害のない状態を経験したことがなかったから、自分が他人と比較して苦しいかどうかはわからなかった。でも、コンサータを飲んで疑似的に健常な世界を見てみたら、ああ、自分には障害があるのだと得心した。

障害を言い訳にするな、というツイートをTwitterでみたけれど、言い訳いわけじゃないんだよね。障害なんだよね。障害を障害と言っているんだよねたいていの人は。

みんな目で見えるものしか理解できない


みんな目で見えるものしかわからないから、足が悪くて走れないことと、脳に問題があってできないことがあることが同じだと思えないんだろう。

私の場合、脳に問題があるので、以下のことがうまくいっていない。それは、自分が思っていることと体がうまく協調できないこと(ASD)、感覚過敏(たぶんADHD由来)、気分をコントロールできないこと(双極性障害)、体を通した情報への処理に負荷がかかること、などがあげられる(まだいっぱい上げられるしそのリストは長い)。そのうえPTSDというか、トラウマのせいで大人の男性が恐ろしいので、彼らが大勢いるような場所ではうまく機能できない。


工夫はいろいろしているのだけれど、工夫をして人並み以下。そして、マイナスをゼロに近づける作業なのですごく疲れる。最初からゼロで、ゼロのままでいる人とは違う。だから、「障害があるからできない」という言い方になる。私は、障害を個性だとも思わない。障害は障害。克服すべきこととも思わない。工夫したら生きやすくはなる。だから個人的には工夫する。ただの障害。いい悪いじゃなくて、不便。私の障害は、社会がどんな風に変わったとしても残ると思う。よく目が悪い人は眼鏡をするでもそれは障害とは思われない、って話が出て、だから障害というのは社会の不備なのだというけれど、社会がどうなっても感覚過敏が減るわけでもない。

その言い方を言い訳だと取る人はいるんだろう。
障害を言い訳にして、やるべきことをしていない、って思うのかな。
でも、障害は障害だから、できないことはできないんだよ。
少なくとも現代ではそうだし、今は現代だから、どうしようもない。

人は必ず年老いて、老いれば必ず衰える。老いを言い訳にしてあれができないこれができないという人を「言い訳するな」というかしら。
言わないよね。でも、同じなんだよ。機能しなくなるってことだから。最初から機能してないか、後から機能しなくなるかの差があるくらいで。まあ、機能していた時期があるというのはうらやましいけれど。

障害はいいわけだという人はその言葉に縛られるんじゃないだろうか。自分が老いたり、周囲が老いたりして、障害を負った状態になったとき、自分の言葉に恥じないで過ごせるんだろうか。案外、自分だけは特別扱いで、「障害を言い訳」にするんじゃないかと思うのだけどどうだろう?

工夫しなきゃいけないこと自体がすでにマイナスだ


そう、障害ってある意味では「ただの能力不足」なのかもしれないね。
ただの能力不足を工夫するべきだっていうならね、その能力不足がもともとない人は何も工夫がいらなくて、いいなって思う。
誰でもその人なりの苦労があるんだろうけど、ある特定の能力に関してはそれがないのだから(だからその点では健常者ってことなら)、それは楽じゃないかって思う。
正直に言うと「私の能力の凹の部分に関して言えば、健常者は楽しているな」と思う。その人にとってゼロのことでも、私の基準ではそこはプラスなんだよね。

まー、そんなんでも、私のことをうらやましいという人はたくさんいる。うらやましいというかずるいと思っている人がいる。
今は困窮していないからだと思うけれど。困窮していた時でもねたまれたからなんだっていいんだろうな。

それこそ「努力した」って思ってほしいけれどそうはならない。
例えば、私が努力していい"御身分"ですね、って思ってる人はいるだろう。それになったことを、「努力したんだから素晴らしいですね」なんて、いう人とても少ないもの。
じゃー、私が「言い訳しないで努力していい"御身分"になれよ」というのも不毛じゃないだろうか。

障害を言い訳にするな、っていう人は、障害を理由に援助されることをずるいと思っているんじゃないかと思うことがある。配慮されていい御身分ですね、みたいな。介護支援や、障害者年金をずるいという人たくさんいるものね。それって、障害を言い訳にしてお金もらってるんじゃねーよ、みたいな感覚なんだろうか。私は障害者年金もらってなくて、介護支援だけ受けているけれどそれをずるいと言われたことがある。

障害者が迷惑かけないようにするのって死ぬしかなくない?

障害を言い訳するな、っていうのはどんな状態か考えているんだけど、かかわるなら迷惑をかけるな、って意味なのかなと思った。
でもそれって、障害者を迷惑だと思ってしまったら、障害者は「迷惑」だから、「隔離しよう」につながっちゃうんじゃないかな。
障害者を隔離しようの考えが行き行く先は、あの悲劇だったのだけれど、あれを受けいれるのだろうか。
精神障害者を社会から隔離した歴史はまだ遠くないので、座敷牢に閉じ込めた結果、どれだけ本人が苦しんで人生を奪われたのか今でも生々しいのに。
障害を「言い訳」にできなかったら、死ぬしかないんでほんとに。なんでかというと、できないことを許されないってことは、自分を許されないってことなので。
そういう世知辛いことはやめましょう。発達障害精神疾患も迷惑っちゃ迷惑で、人に負担をかける障害なのは間違いないけど、でも、いわゆる健常者がどれだけ障害者に迷惑かけているかって言ったら。迷惑っていうか爪弾きだったり、いじめやからかい、嘲笑をかけられた迷惑とも言える。


虐殺もあったしね……。そういう射程の話でもあると思いました。飛躍かもしれないけど。

 

手間暇かけてサポートしてくれるならそりゃーありがたい


 

ただ、このツリーを最後まで読むと、この人は、手間暇かけることを嫌がっていないのです。

 

大体の人は、この手間をかけること自体を「迷惑だ」というので、そういう意味では、「言い訳するな」と言っているけれども、手間とサポートをしている分、近くにいてくれたら助かる障害者は多いだろうと思った。


手間がかからない人のほうが雇いやすいもんなー。それってどうにかしないといけないことだけれど。それが通るとあらゆることが通ってしまう。



それでもサポートの対応してて、申し出を聞き入れて実行してるのは珍しい。



 

結構大変だもの、お茶の入れ方を具体的に指示出して、ここまでお湯を入れるの線を書くような工夫をすることは(ツリー参照)。

 

もしかしたら、「障害を言い訳にしないで、どうしたらいいか教えてくれたら、サポートできるのでお互いいいよね」という話なのかもしれないね。


適応できない、どうにもならない人もいるから必ずしも当てはまるわけじゃないのはわかってほしいけれど。

 

私は、支援につながるまで、自分がどういうサポートを受けられるのかを知らなかったし、工夫をする余地があることを知らなかった。だからすごく大変だった。

工夫をする余地があることを知らないと、どういう風に工夫すればいいかまでも、たどり着かない。(でも、やっぱり感覚過敏については、サポートが入ったとしても、どうしようもない気もする)