双極性障害・ASD・ADHD

生活上の双極性障害への工夫について

電話診察・鬱寄りの混合状態

今日は電話診断だった。

コロナの影響で、電話診察もOKになっており、ラミクタールとエビリファイは二か月出してもらっていて、コンサータは一か月なので、診察をお願いする電話をした。

木曜日に電話予約をして、月曜日の朝に電話がかかってきた。処方箋は、薬局に送ってもらえる。

 

やっぱり、先生の声を聞くと落ち着くし安心する。

確認したいことも聞けたので良かった。

 

今自分がそわそわしていて、落ち着かないこと、睡眠時間が六時間くらいで、朝五時くらいに目が覚めてしまうことや、買わないといけないものが買えないことなどを話した。

睡眠時間が短いから躁かなと思っていたけれど、鬱に近いらしい。

思っていることやわかっていることが言葉にならない、というのも、「思考渋滞」という鬱の症状らしかった。

思っていることから気がそれてしまって言い忘れたり、思っていることが言葉に出せなかったりしたり、ぶつぶつと途切れ途切れになることが多いのは、発達障害の凸凹なのかなと思っていたけれど、もしそうなら常にそうなるから、今だけってことなら鬱の症状だということだった。

 

高齢者が鬱になると、痴ほうを疑われてしまうのは、思考渋滞になって言葉がうまくでなくなるかららしい。

 

私は躁になると、言葉が止められないくらいポンポン出るから、そういう感じじゃないから、今は、鬱だろうという見立てだった。

 

病気のレコードを取るのは大事だ。

最近、「保育園に預けず自分でみたい日もあった。一日くらい子供を休ませたかった」と泣いてけんかをしたのだけど、そうしたら「それどころじゃないくらい具合が悪かった。日記を見てみればいい」と言われて、この時期の二年分の日記をさかのぼってみたら、具合が悪かったことが書いてあり、配偶者の言うことは間違っていなかったということがあった。自分で覚えているよりも具合が悪かった。

 

なので、自分がどういう状況なのか、冷静に見るためには、一言だけ「具合悪い」だけであっても、書けばどういう状況か、後でわかってよい。それがわかると、春は調子が悪い、とか、去年よりはましだということも分かる。だから、五年日記を買ったのはとてもいいことだった。

 

 

先々月に、先生が「不自由がなければいいじゃない」と言った。それをなんでかよく覚えていて、先生は何の気なしに言ったんだろうけれど、私には響いた。

そして、不安になったり、うまくいかないことがあったり、自分の体の問題(目が悪いとか歯が欠けたとか)、そういうどうしようもないことについても、「不自由はないからいいじゃない」と自分に言い聞かせることで楽になる。問題の先送りもできるようになった。それを言ったら、言葉に対して鋭いと言ってもらえて嬉しかった。

鋭いですか、と聞いたら、オリジナリティーもあって話していて面白いと言ってもらった。

また、病気のことを書き留めてみせますと言ったら見せてもらいたいと言ってもらった。

書くと、自分で知らなかった気持ちや、考えが出てきて、「実はこういう風に感じていたり、考えていたのか」ということがわかって、ちょっとすっきりする。

 

 

 夏まではコロナが落ち着いているだろうけれど、秋になればまた状況がわからないとのことだったので、行けるうちに顔を見たいと伝えて、次の診察は来月になった。



先生は「どうせ自粛だからおとなしくしていられるんだと思えばいい。もし、躁だったら、外に出たいのに抑えるのが大変だから鬱にもよい面があると思うってやりすごして」って言った。それは本当にそうだ。

もう、自粛ムードが明けてきたけれどどうか、と聞いてみたら、まだまだ自粛だと返ってきた。先月は、恐れすぎてもよくないと言っていた。先生のスタンスは変わっていないはずなので、どういうことかというと、先月はたぶん、私が極度に恐れすぎていて、今月は、私が楽観的になりすぎているんだろう。

 

もっと夏めいてくれば、鬱状態も減って、元気になる。来年は、春に鬱っぽくなっても、気にならないくらいに元気になるかもしれない、今は具合が悪いかもしれないけど、ずっとじゃない。

私は、躁になることを恐れているけれど、気分だけで言えば、躁のほうが気持ちは楽なので、そのいい部分を見て、躁をコントロールすることを目指せば、躁でもちゃんと暮らせるんだと思えばいい。躁になってから、躁的な行動を落ち着かせるのは難しいけれど、躁の入り口で、それをキャッチできれば、行動をする前に相談するとか、またはもっと違う方法でかはわからないけど、波を低くする工夫ができるはずだ。

前主治医も、工夫が大事だとよく言っていた。変えられないこともあるけれど、乗りこなすための工夫で、暮らしやすくなると言っていた。

 

 

私は言葉にできないくらい細かい工夫をたくさんしている。

なんとか言葉にするとこういうことがある。

ライフハックなんてすごいものじゃないけど。

日記を書く。人に相談する。ヘルパーさんに来てもらって、身の回りのことをしてもらうだけじゃなくて、外から観察してもらい、自分の状況が客観的に見てどうか、とか、ケアマネさんを通して行政につながって孤立しないようにもしている。

躁になったり、多動が出たりすると、お金をバンバン使ってしまうので、お金の管理を人に頼む(今は配偶者にしてもらっているが、行政がしているお金を管理してくれるサービスも検討していた)。

 

食べ過ぎないようにする工夫もある。食べ過ぎない工夫は、前、栄養バランスを崩さないで食べないといけないという不安が強くあったから、それを補うために食べたり、眠気を押さえたくて食べたりしていたのが、一つ目は栄養バランスはなかなか崩れないものだと考えを変えた。体調を崩すのが不安だったから食べていたけど、食べ過ぎて太り、体調を崩すということがあってそれは本末転倒だったとわかったから、その事実をよく考えた。

野菜を毎日採る、採れなかったら野菜ジュースを飲む、たんぱく質は三日スパンで考えて、一日一食だけでも採れたらいいくらいに考えるようにした。足りないと思ってから採るのでも間に合う。おなかがすいたらどうしようと思っていたけれど、すいてから食べればいい、すいても別に困らないと考えるようにした。

 

バッグも毎回入れ替えて、荷物が重くならないようにした。財布とポーチ、スマホだけは必ず入れるようにしている。無駄なものがたくさん入っていると、かえってなくしものをすることが多かったので。そして、無意識に物を置いてなくすことが多かったので、意識したり、習慣づけたりして同じ場所に置くように変えた。

 

こういう細かい、言葉にできないような工夫を積み重ねていけば、生活が落ち着き、生活が落ち着けば、躁鬱もちょっとは乗りこなしやすくなるはずだから、それを目指して心掛けていきたい。