双極性障害・ASD・ADHD

生活上の双極性障害への工夫について

双極性障害、発達障害への受容が少し進んだ

眼科の病院で「自分の体を完璧にしたいと思うのは支配欲で自分を苦しくさせるから、何もかも受け入れて過ごしたほうが幸せだよ。あれがダメだこれがダメだと言っていると、自分のことばかりになり、不幸せだから、人のために生きたほうがいい」と言われてそれもそうだなと思いました。

自分のことばかり言っていると、自縄自縛になります。視野が狭くなって、自分や過去について細かく細かく掘り下げて考えて、自家中毒気味になるので、自分のことは深く考えずに、人に親切にしていたほうが楽だなと思いました。自分のことを考えているよりも周りのことを考えているほうが気楽です。

これが行き過ぎると自分の人生を放棄することにもなるんでしょうけれど、適量を守れば、人のためになることで自分が楽になればこんなにいいことはないです。

 

そのため、仕事を一生懸命やって喜んでもらうとか、バイト仲間のスマホの設定や、料金の見直しを一緒にするとか、そういうことをしていると「優しい」と言われるようになりました。

人が変わったと四人くらいに言われてちょっと気をよくしています。

そして、薬が効いてきて、落ち着いて物事を考えられるようになり、短慮で人と喧嘩をしたり、付き合い方を誤って、人を傷つけたり自分を傷つけたりすることも減ってきました。

 

年齢による効果で、気分のやり過ごし方、常識のわきまえ方を知ったと思います。

周囲に常識が全然ない人に意地悪をされているのですが、そういう人でも恥を知らずに生きていられるんだから私もまあ生きていてもいいかなと思います。

 

人の役に立ちたいと思いすぎても、「役に立てないのだから生きていても仕方がない」と思ってしまいますが、人の役に立つという結果じゃなくて、人のために何かできることを探してみるという過程に目を向ければいいのかなと思います。

 

私は今、自分の障害、疾病をそんなに悪いものじゃないと感じています。

これを言ったら主治医は静かに喜んでくれ「何も付け加えることはないです」と言っていました。

今後、薬が減ることはないけれど、効果が安定してくるからもっと楽になるとのことでした。

 

 

自分の障害が自分に合っていると思った理由、それは、私の障害や疾病が脳の特性によるものだから、自分のキャラクターと密接につながっているので、これらがなければ、私は私じゃないと感じるからです。

また、これらの特性は、人の魅力のフックになっていると思います。人の魅力は、とがったところとへこんだところだと思います。どれだけとがっているかへこんでいるか、そのこと自体が人を惹きつけるのではないかと思うのです。

へこんでいるところやとがっているところは、自分に向けば苦しいばかりだけれど、他人が愛情をこめてみれば、そこは愛すべき特徴に変わるのだろうと思うのです。ただ、愛情をこめてみてもらうためには、人との接し方を工夫しなくてはなりませんが、その工夫の先には愛があるはずです。

 

特性が害を与えることとの裏表として、善い面もあるのではないかと思います。

人の弱さや苦しみに対する共感や、ある種の、ささやかなカリスマ性のようなものや、思いやり、深くものを考えることは、私の特徴です。

愚痴をこぼすときも、相手が面白がれるようなエンターテイメント性を持たせて話す才能があると言ってもらえました。

(自分が愚痴を言ってすっきりもするし、相手もドロドロした昼ドラのような話が聞けて面白い、というような愚痴のスタイルを目指しています。主治医にもそういうタレントがあると言ってもらえました)

裏表なく人と接すること、うそをつかないこと、誠実に過ごすということは、私が心掛けていることでもあり、そして、自分の特性に合ったやり方だとも思います。

 

塾でもほかの先生がさじを投げた発達障害よりの生徒さんを持っていますが、障害があるからダメとは考えずに、自分もそうだからこそ、障害があるから寄り添って話そうと思います。

 

私は、自分の障害が、自分にあっていると思います。ほかの障害だったら相性が悪くてもっと苦しかったのではないかと思います。

頭が悪くないということが自分自身の中で一等好きです。

私は独自の視点で世の中を見られることが自分でも面白いと思います。それは、発達障害ゆえなのかもしれませんし、双極性障害ゆえの始点なのかもしれませんが、どうやら人とは違うようです。それは、脳の性質が違うからなんだと思うと、本当に愉快だなと思います。私が自然に発想し、奇をてらっているわけではないことが、人から見ると変わっていると感じられるならば、それはよいことだと思います。

 

私は自分が生きていくうえで、エンターテイメント性を重視しています。面白かったからそれもよいという考え方です。そうすると、悲惨なことが起きても、何とか生きられます。退屈なのは性に合いません。こうしたスタンスがひどい状況を引き起こしたことが何度もあります。けれど、自分の中でこもっていても、外に出ても、時間は進みます。自分の心の時間を動かすのは、外に出たときです。そして、外に出たときの経験をもとにお話を考えることが好きです。

 

若い頃は、糸の切れたタコのようで衝動性も強く感情が高ぶり人に迷惑もかけていたと思いますが、今も仲良くしてくれる人はいて、そうした人は私に魅力を感じてくれています。十代という一番私が自分を持て余しているときに友達がいたということは大きな自信になります。

私は、大学生のころ祖父の介護をしており、また、その時はうつ病という診断だったので、長期休みを遊んだこともなく、本を読んで過ごしていました。

うつ病なのに介護に駆り出されたことはひどいと思います。恋人も七年くらい付き合った人がいましたけれど、後半の三年はぐちゃぐちゃで相手にされていなかったように思います。でもまあ、面白いこともあったし、こういう私と一緒にいてくれて、まじめに考えていてくれたのはありがたかったし、その時に人との信頼関係を覚えたと思います。

十代二十代は親のことで悩んで人に面白くもない愚痴を話していました。今も愚痴は言いますけれど、周りにおもしろいと言われる愚痴を目指すようになってから、人間関係が良好になってきたと思います。

 

私は結構人に騙されたり襲われたり裏切られてきましたけれども、結果的に人を信じて信頼する心は失わなかったのでそこは、自分でも才能だと思います。本当に良かったと思います。

 

人と人との関係の中で、私も変わってきたと思います。障害をカミングアウトしても’(しなくても)、変わりなく接してくれている人が増えました。親せきは私を葬式にも呼ばなくなりましたが、私が自分で選んだ人間関係の人たちは、私の欠点も含めて愛してくれていると感じています。

 

私は今過眠の鬱で一日十一時間半規則正しく眠っていますが、眠れない鬱よりもいいと主治医に言われており、本当にそうだなと思います。昔なら、自分が鬱だということが自分でかわいそうでつらく思っていましたが、今はつらくありません。

つらいことを避けているからでもありますが、そういう取捨選択を自分でできるようになったのは、年齢の効果だと思います。この年齢になるまで自分を育ててきた自分の成果だとも思います。周囲のおかげでもあります。これは、他者に対する感謝もありますが、もう一つの気持ちがあります。

それは過去の自分が周囲が理解できるように、説明を一生懸命したせいだろうと思います。

誠実を積み重ねていくと、相手にも理解する余地、余裕が生まれます。例えば、接しているときに、相手を限界まで追いつめてさらに理解を求めることには無理があります。

だから、相手を追い詰めないで余裕が持てるようにこちらも接して、信頼を築いてから、こうしてくれると助かるということを小出しにしてきました。そしてそれがうまくいっていると思います。

 

だから、人のおかげであることをもちろん重々承知していて感謝もしているけれど、うぬぼれも含めてあえて書けば、まず自分ががんばってきたことがあり、人間関係を形成してきたからこそ自分の障害を自分に合っていると思えるようになったんだと思います。