ASDには心も感情もある
心がない、感情がないと言われる
- 心がない、感情がないと言われる
- 男性の発達障害の人の傾向への推測
- ASD同士では共感できる
- 自分の場合
- 心を込めてパターン化する
- 表現方法が違うので、差異を埋めるための努力が必要
- 心を取り出すことはできない
- 初めて心がないと言われたとき
- タイプが違うと同調しにくい、けれど、それは改善できる
よく感情がないだとか、心がないだとか言われるASDである自分のことですが、普通に心はありますので、そういう風に言われると悲しくなります。
定型の人に、そこは想像してほしい点です。心がないと言われたとき、相手はどんな風に感じるか、ということです。
心がない相手だと思っても、実は、心のようなものはあって、その人はこれを言われたらとてもショックを受けるのかもしれない、ということを予想してほしいと思うのです。
男性の発達障害の人の傾向への推測
特にカサンドラ症候群の方が「自分の夫は、ASDで、だから心がない。ASDには心がない」というようなことを言います。
でもそれは、ご夫君との相性が悪かったのではないかと思うのです。二人いれば同じくらいコミュニケーションに熱心にならなければ、うまくいきません。片方が頑張っても、もう一人にやる気がなければ、それは悲しくなるでしょう。
本当にお気の毒なことだと思います。
私もしてしまいがちなことなのですが、相手の心の動きを慮らなかったばっかりに、自分の心の話ばかりしてしまう場合があります。そこには悪気はありません。でも、結果として、相手をないがしろにしてしまう場合があります。
例えば、「忘れ物したね」と言われると「忘れ物をしてしまった自分は本当にダメだ」とパニックになり、相手の「忘れ物をしたね」といったことについて、対応できなくなる、というような場合です(丸山さとこさんのツイートを参考にした例です)。
また、こういう場合でなくても、自分のことで頭がいっぱいになって、相手がどんな気持ちでいるか、想像する余力が失われている場合、また、もともと、相手のことを想像するという発想がない場合があります。
そうした発想なく、生きてこれてしまった人が、大人になってからそのことに気づくのは、確かに難しいことです。
それを指して、心がないと言っているのかもしれません。それは、そのご夫君が自己中心的な考え方をしていて、妻の心の動きを想像することをさぼっているから起きるのだと思います。幼稚なのだと思います。
男性の発達障害の人は、周りに慮ってもらうことに慣れていて、自分が慮る立場にあることが少ないように思います。
おおよそ一般に男性は、おぜん立てされていることに慣れています。おぜん立てされているから、人の心の動きを些末なことだと考え、そこに割くべきコストを割かず、その分の力を自分のしたいことに向けているのだと思います。そうすると、一見成功する場合もあるのだと思います。そして、不幸にも相性の悪い者で結婚してしまうのでしょう。彼らは自分の心の動きには敏感です。心があるからこそ、利他的になれず、利己的なのだと思います。
ASD同士では共感できる
https://news.mynavi.jp/article/20141111-a322/ (LLLさん紹介ありがとうございます。)
この記事のように、ASD同士では共感があるのではないかという研究があります。定型同士でもそうでしょうが、絶対共感できるという意味ではありません。
発達障害同士でもこいつは絶対許せない意味がわからないし大嫌いだということもよくあります。
個人的なことですが、私自身発達障害で、一緒に暮らしている人も発達障害です。その二人の間には、冗談もあれば、けんかもあります。けんかというのは、心があるから起きることだと思います。
普段、悲しかったら「悲しいね」と慰めますし、嬉しかったら「嬉しかったね」と一緒に喜びます。
当たり前のことですが、ASDにもいろいろな人がいて、人の言うことを素直にうのみにしてしまう人、自分のことばかりになる人、相手のことを考えたいけれど、パニックで心の容量がいっぱいになっていて、相手のことを考えるのが不可能になっている人などバリエーションがあります。
自分の場合
私は、自分のことしかわからないのですが、私の場合、相手の感情はできる限り尊重したいと思っています。思っていますが、できないこともあります。
それは能力的なものだったり、体調の問題だったりします。
私は、自然に感情を読み取ることが、多分下手なのだと思います。多分と留保をつけるのは、他の人がどれだけ自然に苦痛なくそれをしているのか、想像の域を得ないからです。
私は人と会うととても疲れます。それは感情を読むのに頭を使うからです。
耳の不自由な人が唇を読むのに似ているかもしれません。
私は、相手の心を想像するときに、時間がかかる場合があります。人と接するときには頭がフル回転です。噂によると定型発達の人はそうしたことが自然にできるそうですね。そこは違うのかもしれません。
でも、時間がかかっても、想像することはできます。また、心の成長が遅いのは自分でもわかります。だから、なるべく、自分の感情を自己モニタリングするようにしています。相手が驚かない範囲で表現して、すり合わせする努力をしています。自分がどう思っているのか伝えなければ、相手もどうすればいいのかわからないだろうと思うからです。
また、相手の言うことを聞いて、表情を観察します。それによって、相手の背景を推測して、どうふるまえばお互いの心を痛ませないか、考えることができます。
例えば、私たちの家でも、「頭が痛いね」というと「私も」みたいな会話があります。そうなんだ、しんどいね、という共感が省かれています。
でも、そこに「そうなんだ、しんどいね」と言いたい気持ちはあります。言ってほしい気持ちもあります。
ただ、それを言い忘れてしまうのです。相手への「そうなんだ」とかける言葉への優先度が低くなりがちだということです。また、この場合だと、二人とも頭が痛かったら、気圧のせいかもしれないと原因を考えることができると考えて、そうなんだ、を省くことがあります。
そうしたとき、頭が痛い、といった側には不快さが残る場合があります。私も不快になります。だから、気を付けて、「そうなんだ、しんどいね」とはさんでから、「私も頭痛い」というようにしています。
(クッション言葉をいってほしいのに、言ってもらってるだけで自分は言わないだと一方的にクッションを奪ってるのと同じなので、暴力に近いと思います。
また、片方がクッション言葉を言ってもらってるのに気づかないでいるので、クッション言葉をかけている側はつらい、ということも往々にしてありそうです)
心を込めてパターン化する
でもそれは「そうだね、実は私も頭が痛いから気圧の問題かもしれないね」とクッション言葉と推測を補えば済む話だと思います。
これは、パターン化できます。
パターン化することについて「心がない」という人もいますが、これは必要なことです。自動的にできないのだから、パターン化するのです。
心を込めて、と言われますが、その心の込め方がたぶん違うのだと思います。
あえて言えば、心があるから、心を込めて、パターン化して、記憶して、相手が不愉快にならないように努力するのです。
それは、相手のことを大事だと思っているから頑張れることです。
頑張っても、「自然にできないのなら、それは心がない」と言われると、心が折れてしまいます。
表現方法が違うので、差異を埋めるための努力が必要
発達障害の人には、自己モニタリングと、表現力が必要です。非定型と定型の人では、感情表現や、動作、しぐさなどの点で、細かい表現方法が異なるので、その異なり方を言葉で埋めるほかないと思うのです。
同じ世界で生きている以上、差異を埋めて、ともに生きることが必要です。
私から見ると、定型の人は、同じ傾向の人同士で、細かい差異を埋めるための細かい言葉遣いが足りていない、自己モニタリングして自分の感情をコントロールすることが足りていない、と見えることがあります。そのため、誤解が発生していると思います。
定型の人同士でも、けんかやいざこざが起きるので。
なぜそういうことが起きるのかというと、それは、同じような特性の人とは言葉がなくても通じるという錯覚や誤解があるからでしょうし、おそらく、自然な感情の発露をそれほどとがめられないからなのだと思います。
私の場合は、もしも、自然に感情を表現すると、人に対して異質な印象を与えるでしょうから、多少調整しています。ときどき、表情も鏡を見ながら練習しています。言葉なしでは、通じませんし、感情の発露はコントロールすべきものです。それがうまくいっているかはともかくとして。
定型の人も、発達障害の人がしている工夫を取り入れたら、もっとよく人と対話できるようになるかもしれません
心を取り出すことはできない
私は読書をしたり、映画を鑑賞したりして、涙が出ることがあります。涙が出るからと言って、心があるとは言えないかもしれません。心を取り出してみることはできないからです。でも、それは定型の人も同じです。
定型の人も、「心がない」と言われたら傷つくのではないでしょうか。
初めて心がないと言われたとき
私が初めて心がないと言われたのは、高校生の時です。それは、手術の前の日でした。緊張のせいか、熱が38度あったので、お見舞いに来ていた祖母に「申し訳ないけれどしんどいから早めに帰ってほしい」旨伝えたところ心がない、非情だと言われたのです。
私は驚いて、それ以来その祖母に会うことはありませんでした。
ただ、言い方の面で、私に問題があったのかもしれないと思います。
私は子供のころ、表現方法が未熟で、相手の気を悪くしない断り方をまだ覚えていませんでした。覚えていたら避けられたミスだと思います。
人が「この人には心がない」というときは、「自分をないがしろにされた」と感じた時だと思います。
人をないがしろにするのは、心がないからではありません。
想像力を鍛えておらず、幼稚だからです。
つまり、言い方に問題があるからと言って、心がないと考えるのは性急なのだと思います。
この場合、心無い言葉をかけたのは祖母だと思います。心があっても、心無い言葉をかけることはできます。彼女には心があるから不愉快だと思い、私に心がないといったのでしょう。自分の心境を慮らなかったから、非情だといったのではないかと思います。
私にも心があります。でも、ないと言われました。そうしたらこの悲しさ痛みはどこから来ているのでしょうか。彼女も、私に一番ダメージが与えられる言葉を選んだのでしょう。それは、私に心があることを、あてにしていたからです。本当に、私に心がないと思えば、そんなことを言っても無意味なのだから、言わなかったでしょう。
実は、彼女は私に心があると知っていて、そのうえで心がないといったのです。
タイプが違うと同調しにくい、けれど、それは改善できる
定型の人と、非定型の人とは、表現方法が違います。非定型の人にも共感があります。
でも、タイプが違うのでしょう。
非定型同士では共感できる場合があります。もちろん、人によってはこいつなんなんだ、ということもあります。でもそれは発達障害ではない人にも同じようにあることだと思います。
脳のタイプの違う者同士は、同調しにくい、そういう相性があるようだ、そのくらいの言い回しにしてほしいと思います。そうしてもらえたら、心がないだとか共感がないとか言われるよりもずっと楽だと思います。また、そうした言い回しならば、断絶せず、お互いの差異を埋める努力ができるのではないでしょうか。