双極性障害・ASD・ADHD

生活上の双極性障害への工夫について

精神疾患を持つ人の自己決定

お盆の間は、夫が大学に行っている。

 

 

夫は、大学を楽しんでいるようで、帰ってからレジュメを見ながらいろいろ話してくれる。それが楽しみだ。勉強ができる喜びでいつもより生き生きしているように見える。

わかりにくいけど、一緒に暮らしているからなんとなくうきうきしているのが伝わってくる。

 

昨日は、尊厳死安楽死についてだったようだ。

今日は、医事法の精神医療の部分らしい。

 

精神疾患を持っている人の自己決定はどんなふうに法律で処理されるのか、とても興味深い。うつや、双極性障害は、気分が意思をゆがめてしまう病気なので、それが本人の意思かどうか、自分でも、判断しづらい。

鬱の時には大きな判断をするなというけれど、私の場合、常に躁か鬱の輪廻にいるので、それを言うと、いつ判断していいのか、という問題がある。

正常な時がないから、判断に適した時もない、とするなら、病気の長い時間を、自分の意思決定なしに暮らさないといけなくなる。

 

それでは、自分の人生を生きられなくなってしまう。

躁鬱の困ることは、私の場合、性格に及ぼす影響が大きく、考え方も、言動も、別人みたいになってしまう。それでも幹になるようなものが同じだから、一つの人格として認識できるけれど、それも、何とか出来るという感じだ。

鬱の時には卑屈になって、自分がダメだと繰り返して、ぐじぐじいってしまう。

 

 

逆に、躁の時には、よく考えて判断しているつもりでも、後になって振り返ると、衝動的に、破れかぶれのようにふるまっていて、後悔することもよくある。だいたい、後悔し始めるのは鬱のサイクルの始まりだから、どこのところで折り合いをつければいいのかわからなくなる。

 

気分が及ぼす影響で、意思が変わってしまうことはよくある。気分が変調する病気だから、判断が自分でも信用できない。

 医者やカウンセリングで、病気にひっぱられた考え方を元に戻してもらうことで、立ち止まる習慣をつける。

 

 

自分で考えたから後悔しない、というのはありえない。後悔ばっかりしている。

でも、たぶん、他の人だって、後悔しないように心を決めているだけなんだろうと自分を慰めている。

ただ、間違った判断でも、しないよりもましだから、するし、間違った判断でも、尊重してもらうと、自分の人生だ、という感じがする。

自分の人生の主人公だ、という感覚は、自分の人生の舵とりを掌握している、という部分からはぐくまれている。ここでいう、「人生の主人公」の言葉の意味は、時間や判断を自分でコントロールできているかどうか、だ。

他の人は、自分の時間や判断をコントロールできているかどうか、どのくらい気にするのか、まったく見当がつかないけれど、私はそれができないと本当にゾンビになったような気がする。把握して、コントロールしたい。

 

流されるのしても、流されていることを自分で判断した、という過程があるからこそ、生きている感じがする。

人に支配されていては、生きている意味が失われてしまう。生きている実感がない。

五感も働かなくなって、死んでしまいたくなるほど苦しい。触ったものの感触も、何かビニールをはさんでいるみたいに、遠くなる。音も遠くで聞こえるようになる。

 

自分がつかんだ現実でないと、だんだん自分が生きているのか、それともすでに死んでいて、誰かの夢を生きているのか、わからなくなる。

 

だから、私にとって、自分の決定というのはとても大切で、人生の質を変えるものだ。

 うつ病双極性障害の人の自己決定が、気分の影響を受けて、間違っていた時に、取り返しがつくような環境であれば、それが可能になる。

そのためには、自分の病気を把握して、人に伝えて、力を貸してもらうことが大事だ。

これは、頼りっきりになるという意味じゃなくて、こちらができることはする。相手のためにできることがあればする。

自分の病気に周囲を巻き込まないために、相手の安全を守るために、自分の病気の状態を伝える。

相手は、病人と没交渉になることも当然選べる。けれど、周囲にいる限り、お互い病気の影響は、免れないので、そばにいるひとには、自分の情報を伝えて、お互いハンドリングできるようにするべきだ。今、現実に「接してくれる人」はいるので、その人たちを病気という台風に巻き込まないようにしたい。

無理をさせているのは本当に申し訳ないし、どうしたら償えるのかわからないけれど。

(そう思うそばで、発症の原因になった人たちは、何にも悩んでないし罪悪感もないんだなと思うと脱力しそうになる)

 

 

ただ、巻き込まないのはたぶん無理なので、安全に巻き込まれて、うまく飛ぶ方法を一緒に考えたらいいかなと思う。

 

 

「そばにいる人」に、病人と関わるメリットは、一見なさそうだけれど……。だから、生きていて申し訳ない、という気持ちになることもある。

 

だからといって、わたしが誰にも迷惑をかけたくないからと引きこもって一人で生きていても、結局迷惑は掛かるし、社会というのは、そういう弱い個体を生かすために存在するから、それは考えても意味がない。

 

そう、社会は弱い個体が生きるためのコストやリスクを分散させて、なるべく多くの種類の人間を生かすために存在している。それが人間の生存戦略だから。

なので、その進化の過程で生み出された自分のような人たちは、やっぱり生きるべきだし、まわりもあきらめてそういう人もいるだなと思って、こっちに慣れてもらいたい。

冗談みたいだけど。そして、現実に気分障害の人と関わっている人にはそんなのんきな話じゃないのもわかっているけれど。

気分変調をやりすごすやり方は、「普通の人」にも使えるんじゃないかと思う。

 

こっちが提供できるのは、病気を生き抜くためのノウハウくらいしかないけれど、それでも、私のことを面白いという人はいるから、多分面白いと思う。

 

そもそも、障害者や病気の人も生きられるような社会じゃないと、いわゆる普通の人や、元気な人も生きにくいはず。だって、元気な人なんていないから。ちょっとずつみんな不健康だから、それを認めて、不健康でも生きられる社会を作ったほうが生きやすい。建前では元気な人を基準に設計されている社会だけど、みんな元気じゃないものね。無理はやめて、基準を低くしよう。

 

精神疾患を持つ人の自己決定が取り返しがつくくらいの緩い世の中のほうが、みんな楽なんじゃないかな。



8月の目標は人格を安定させること

月に一回の診察でした。

今回は、子供が手足口病の疑いのある発熱と口内炎を発症して、受信日を変えてもらいました。

 

 

今月の目標:人格を安定させる

「同じことを言われても今日はにこにこしていたのに明日は激怒するとなると、あなたがどういう人なのか全く分からなくなってしまうから、心の中でいろいろ思っていろいろな面があるのはいいし、当然なんだけど、表に出ている人柄は、一定していないと、周りもどう扱っていいのかわからない。

だから、人格のコンダクター(指揮者)を用意して、人格を維持することに努める。

別人にならないようにする。今日はパーカッションがうるさいし、弦が静かすぎるということがあってもいいんだけど、今日はベートーベンの第三をやっているとか、何を演奏しているかというのがはっきりしていないとダメ。人が聞いて第三をやっているくらいの何をしているかがわかるようにしないと、周りがどう対応していいのかわからなくなる」

と言われたので

「自分の人格がこうである、というのが確かにはっきりしない。人にこうだ、と言われると、ああそうなんだ!とうのみにしまうし、人が親切にしてくれると、裏があるとは思わないで信じてしまう。

自分でも自分がどういう人間なのか、どういう人と思われているのかわからない。

水のシミみたいな気がする。水が形がなくぐにゃぐにゃしているみたいな気がする。シミがあると同じ形に染み付くみたいなくらいしか、人格が安定していないと思う。自分で自分がどうなのか全然わからない。自分がこういう人であるとはっきり言えない。

「自己紹介できるくらいの人格の輪郭がはっきりできればいい」と言ったら面白い表現だと感心してもらった。

 

「今は、自己紹介するほど人格がはっきりしない。自分でも統合失調症かと思うくらい人格が安定しないことがあった」

という話をした。

調子のいかんにかかわらず、人格を安定して表出させていくことを今月の目標にしようと思った。

 今は、人からは、明るく朗らかな人だと思われている……と思う。

それと、まじめ、とは言われる。あと、神経質なところと突然雑になる部分が混じっているとも言われたことがある。自分としては、気分の変調を外に出したくないと思う。

別人のようになるのも嫌なんだけれど、外に出すことで、自分の感情がより一層引きずられてしまうのが嫌だ。

 保留をする

先月の目標では一般化しすぎない、ということについて書いた。

 

c71.hatenablog.jp

 わたしは、うまくいかないと「あー全部だめだ死ぬしかない死のう死にたい何もかもうまくいかないのは私が悪いからでしょ」と言ってぐちぐちいう習慣があるのだけど、ぐちぐちいっても、何も改善しないから、やめようという話でした。

人に嫌われたからって全人類に嫌われていると思うのもやめるべき。

そして、一番大事なのは「嫌われていい人はいるしそういう人は嫌い返せばいい」ということです。

大事なのは家族だからそれを守るために嫌われるのは構わない。

 

嫌われたほうがいいくらいの人もいるんだから自分を守るためには、嫌われちゃっていい。それを恐れて、物事を解決しないほうがまずい。

 

今月の目標は、保留をするということ。保留をすることで、落ち着いて考える。対処するべきことと対処しなくていいことを分ける。

また、時間を置くことで、感情的になることを防ぐ。

自己憐憫におぼれて、現実的に解決しないといけないことから逃げると、事態が悪化するから、自分に都合悪い問題を解決するために集中しないといけない。

そのためには、自己憐憫も感情に流されるのもしないほうがいい。

感情に流されないというのは、訓練次第でできそうだ。

感情のスイッチを押さない、感傷的にならない、昔のことを懐かしまない。今を生きる!

 

情報に飛びついて、すぐに決めると、困るので、わからないことは保留する。

いろいろなことが浮上しては消えるけど、忘れることはそんなに重要じゃないこと。覚えているのは大事なこと。たいていのことは保留して、忘れても大丈夫なこと。

それができると、せかせか落ち着かない、焦燥感に襲われるということが減るはず。それが人格の安定につながるといいな。

 

 

人を疑う

人を簡単に信じるから危なっかしいと言われました。自分でもそう思う。騙されやすい。

 

人に親切にされるとこの人はいい人だとたやすく思うし、人が、荒唐無稽なことを言っていても、自信がありそうに見えるとそうなのかーと思っちゃう。

だから、いい意味で人を疑うことを覚えようと言われました。信じそうになったら一呼吸を置く。保留する。

これは、とても心配されているので、気を付けようと思う。

 

過集中と疲労

先生と話しているとき、集中して話を聞こうと思っていたら、先生の姿が網膜に残って、ぴかぴか光っているみたいになって、まぶしくなり、言葉の意味がバラバラになったのでそのことをそのまま言ったら、「それは疲労じゃない?」と言われてそうかーと思った。

「体力と集中力の限界で、話が聞けなくなった。それは、人によっては上の空だったり眠くなったり飽きたということで表現されるけど。意味が取れなくなった=聞けなくなった、ってことだから、疲労と同じじゃない?過集中かもしれないけど」と言われた。

そうか、それはあきらめるしかないなと思った。

 

人の話をできるだけ覚えていたいけど、覚えられない。

「記憶力は悪いほうじゃないと思うけど」とのことだった。

人格が安定しないし、気分は変調するし、いいところがなくて自分てくずだなと思ってどんどん卑屈になるという話をした。

「どうしてそう思うの?」と聞かれて答えられなかった。

答えられないことが自分の答えだなと思った。つまり、くずだと思う必要はない。特に理由がないんだから。

だから、

「変な人だけど魅力がある」くらいを目指しておこうかなと思った。

「病気は病気としてあるけど、それとあなたの人格や個性はイコールではないし同じ病気の人でも全然違う病気の表現の仕方がある。だから、病気のことで、自分の個性が消えちゃってるとか思う必要はないよ」と言われた。

「あと、魅力のある人になろうと思いすぎてあざとくなっても疲れるし、結局好かれはしないし、だから、結果的に魅力のある人になれればいいねと思うほうがいいよ。だって、魅力ある人になるってどうやるのかわからないじゃない?」と言われて

「とりあえず勉強しておこうと思います。勉強は面白いし」と答えた。

「生徒さんに小論文の人みたいって言われたのでそういう方向で考えます」

「小論文の人みたいって?」

「たぶん、起承転結を付けてしゃべって、内容が小論文観たなことを言うからだと思います」

「それはそれですごいと思うけどね」という会話もした。

今回気づいたこと

→以下は先生からのコメント

三日に一度くらいで躁鬱が転換する。

→先生からは、ペースが忙しいとのコメント。

疲れたり暑いと鬱に入る。

→鬱に介入して、「鬱をほどほどにしよう」というのは難しいから、「躁になったから、ルールを守ろう」という風にして、疲れすぎないようにする。躁が高いと鬱がひどくなるので、お金を使わない、情報や刺激に飛びつかない、人に会わない、家の中にいる、などの工夫をするといいよ、とのこと。

でも、「ルールを守れないし、お金を使ってしまうから困っている」と言ったら、まあそうなんだけど鬱の時に元気出すよりはやりようがあるからさ、とのことだった。

まあね、それができたらいいんだけどそれができたら苦労はしないっていうか。すぐになんとかできないから障害なのかそうなのか。それでも時間がかかっても改善するように努力しよう。

 

躁になると睡眠時間が短くなるのでそれを目印にしているが、爽快感はなく、ぐじぐじと考え込んでしまう。

→これは躁ではない。躁っていうのはすっきりしていてさわやかで何でもできると思ってかっとんでいるときだから焦燥感があったり、切迫感があるのは躁じゃなくて鬱だね、と言われた。もっと誇大妄想的なのが躁状態って定義だからそれは混合状態だね、とのこと。

 

 

結論

今回は、ルールを定めて、躁の時にルールを守る。

高く浮かび上がりすぎない。人格を安定させる。

刺激に飛びつかない。刺激を遮断する。

すぐに決めなくていいことは保留する。

 

ということに気を付けて生活したいなと思った。

 

 

最近は、子供が手足口病の疑いがあって、看病に必死で、勉強や、ブログ、ゲーム、映画鑑賞などがあまりできなかったので、そういうこともしたい。

子供は、最近、お手伝いをしてくれる。おもちゃ箱のものを全部ぽいぽい出すのがブームらしいけど、それを片付けていると、手伝ってくれる。そしてまたぽいぽいしてくれる。うんざりするけど、毎日笑いが絶えない。これはいいことだと思う。

自分が幸せだと思い込んでいるうちに、幸せになるだろうから、ぐちぐちぐしょぐしょ泣き言を言って、周りを悲しい顔にするのをやめたい。わたしが楽しそうだとみんな安心して楽しくなるだろう。

ラミクタール・エビリファイによる双極性障害エピソードの減少

コンサータを飲み始めてから二か月たちました。

それと同時に、ラミクタール(ラモトリギン)、エビリファイも増加して、

ラミクタールは、175㎎、エビリファイは100㎎出ています。

 

双極性障害エピソードの減少

躁状態のやらかしエピソードが減った

最近は、早朝覚醒中途覚醒、悪夢などがかなり減りました。だから、躁状態にあること自体が減ったと推測できます。

実際に、元気から鬱まで5段階評価の記録によると、だいたい、抑鬱(3)にあることが多く、元気(5)であることがとても少ないです。

それでわかることは、これが固定されたら、私にとっての「元気」というのは、躁状態にあったからそう思っていただけで、「抑鬱」くらいなのが平常モードなのかもしれません。それならば、抑鬱に関して、対策を練ることがいいんだと思います。

 

買い物をしすぎ亡くなった

今までは欲しいと思ったものがあると、飛びついて、大量に買うことも多かったのです。それは後から思うと、奇妙なものだったことも多いです。けれど、一度買うと執着心が生まれて、なかなか処分できず、家が片付かないという問題を生んでいました。

また、それは、お金の問題でもありました。

一時期は、自分が使ってもいいお金の範囲を超えて、家族のお金を使ってしまうということさえありました。

これは、病気のせいだとは言え、家族の信頼を失い、また、家計の計画に甚大な影響を及ぼすので、悩んでいました。

家族に申し訳ないという気持ち、自分が情けないという気持ち、自分をコントロールできない恐怖、罪悪感やおびえ、そういうものと毎日戦わなくてはならず、自分を追い詰めていました。

けれど、ラミクタールやエビリファイが増えるにつれそれらの衝動は収まりつつあります。

他にも、逸脱行為なども落ち着いてきました。

感情的になる、過剰に反応する、人の意見におびえる、自分の軸を持てないこと、精神的に不安定なこと、などは、病気の影響と、自分のもともとの考え方の癖のハイブリットであるため、改善するかはまだわかりません。

ただ、感情的になって、行動をコントロールできなくなる回数は減っています。

感情的になったときには、行動を停止する、離れるということが難しく、嫌なことがあれば、それを無視するのではなくて、それに興味が行ってしまい、ずっと考えるということがあります。これは、ASDの影響かもしれません。うつ状態のエピソードかもしれません。

 

うつ状態の変化

 

鬱状態に関しては、今のところ効果が出ているか把握できていません。

それは、体調不良として現れるケースがあり、そのときには、体調不良か抑鬱か区別がつかないからです。精神的なショックがあるときには、皮膚疾患、発熱、目が見えにくくなるなどで現れる時があります。

寝込み、抑鬱は睡眠時間のチェックによって把握できます。しかし、なんとなくだるい、気分が乗らない、億劫で日課を遂行するのにエネルギーが必要だ、ということは記録に残しづらいので、変化したかどうか把握できていません。

頻繁に泣く、「死にたい」「消えたい」「自分さえいなくなったらみんなが喜ぶ」、昔のことを思い出して延々と愚痴る、というのは、減っています。

今までが10とすると、5ぐらいになったかもしれません。

特に、朝そうなりがちだったのですが、暑いと感情がコントロールできないことに気づいたので、起きたら水を飲んで、エアコンを強くするという行動によって、機会を減らしています。

 

うつ状態のデメリット

感情は大切にしたいものですが、過度な感情の盛り上がりは、一日に一回でもあると、疲労困憊してしまい、感情や感傷に浸る以外の何もできなくなるという欠点があります。

そして、一日泣いているばかりで何もできないでいると、自己嫌悪に陥り、また抑鬱を深めるという悪循環があります。ラピットサイクラーなので、躁のサイクルに入ると、自動的にリセットされますが、鬱が深ければ躁も高くなり、やらかしエピソードに結びついてしまうので、コントロールしていたいことです。

うつの状況

うつ状態の時には、人に会うのが怖くなります。人から嫌われているんじゃないか、変だと思われているんじゃないか気になります。

今は、元気なので、嫌われたってかまわないし、変だと思われていても何の影響もないと思えます。嫌われているなら嫌い返せばいい、それもお互い様だと思えます。

 

傷つけられたとき、それを正当に感じて、相手に抗議する距離を取るなどの具体的な行動をとることと、不安におびえてびくびくすることとは大きく違います。

 

また、一つの些細な失敗を「だから自分はダメなのだ、死んだほうがいい」「死ぬしかない」と思ってしまうのは、「過度な一般化」です。

 

c71.hatenablog.jp

 これは、家族に対して非常に良くないです。

うつ状態への対策

自分の思い込みに固執して、相手のなだめる言葉を聞き入れなくなります。

うつ状態そのもの(なにもできない、寝ている)ことで迷惑をかける部分は少ないのですが、うつ状態から発生する「死にたい」「失敗したからもうダメ」というような行動は大きく迷惑をかけるので、気分が悪いことを、行動に結びつけないことが大事だと思いました。対策としては、やはり、「言葉に出さない」ことが大事だと思います。

自分で声に出して発音してしまうと、それを自分で聞いて、ますます思い込みを強めてしまうこと、家族に聞かせることで動揺させてしまいます。

思ったとしても、思ったにとどめておくことで、その気持ちを忘れることができるんじゃないかと思って、それをしようと思っています。

言ってしまったときにも、話を変えるなどしていけるといいと思います。

 

一般化しすぎない

少し前に、病院に行って精神療法を受けた。

カウンセリングも受けた。

 

最近は、心臓がバクバクするということを相談した。

 

それは、具体的に嫌なことがあるから、それを集中して考えて、対応するようにと言われた。

そして、そのことで、人に嫌われるのは、当然のことだから、お互いさまに考えると言いとのことだった。

お互いさまに考えるというのは、こちらが傷つけられたというとき、相手も傷ついているから、傷つけあうのはお互いさまで、仕方がないことだし、それはそれで堂々としていればいい、ということだ。嫌われたからと言って、自分を責めないようにすること。利害が不一致の時には、嫌われることを避けられない。嫌われてもいい相手がいる。

 

 

「人に嫌われた」ことから、「世間の人が全員自分を嫌っているような気がする」というのは、気のせいだから、過度な一般化をしないように、それは考え方の癖だから、と言われた。

 

確かに、誰かに嫌われたからと言って、世界中の人に嫌われることはありえない。とりあえず、病院の人と、今の家族に嫌われることはない。だから、自分を最悪だと思う必要はない。

 

わたしは、アドバイスを反映して生活するから、アドバイスし甲斐があるとほめてもらえた。

先月は、勉強とゲームと筋トレを頑張った。うつの時も、一問だけとく、一分だけ筋トレする、ゲームのスイッチを入れる、だけでもやろうと思ってしていた。

やる気は、出すものじゃなくて、やりながら自然とわいてくるものだから、最初のハードルを低くすると、やりやすい。一問だけ解いて本当に終わりにする時もある。

でも、一門でもやるとやらないとでは次の日の心持が違う。

だから、やったほうがいい。

 

筋トレも、もう三か月続いている。少しすっきりしたように思う。

料理は、今の状況だと難しいけれど、訪問介護の日に、ヘルパーさんに見ていてもらうことで、何とか出来ている。

肉を腐らせてしまうなどのミスをするけれど、まあまあ健康的な食事がとれていると思う。

日記も毎日書けている。

 

躁鬱の状況の把握を睡眠時間でしていて、それはうまくいっている。

睡眠時間のプロットがうまくできていない。

一般化に気を付けるようにと言われたから、今月はそれを頑張りたい。

 

今回は、病院に行ってから二週間くらいしてから書いたので、あまり覚えていなかった。

ブログに書くことで、復習ができ、生活に反映しやすくなっているので、次回は、速やかにブログにしたい。

ブログに書くこと自体も、最近は、怖いような気がしている。

おびえながら書くのはつらいけれど、もうちょっと続けてみようと思う。そうしながら、二十年くらい続いているのだし。

不安、動悸がする、やらかしエピソード

 

最近、いろいろあって、不安がひどい。

心臓もバクバクするのが続いている。今週は病院に行くのでそれを相談したい。

でも、よくなったことがいくつかある。

 

  1. ものにぶつかりにくくなった。
  2. 片付けができるようになった
  3. 掃除ができるようになった
  4. 勉強ができるようになった
  5. やらかしエピソードが減った。

躁鬱病の病状の変化について

5以外は、コンサータのおかげだと思う。

今は、慣れてきたのか、最初のインパクトの強い効果を感じることはないが、生活は落ち着いている。勉強ができるようになった。つまり、頭がよくなった。

集中して、何かを理解できるということは、頭がよくなったということだと言われてうれしかった。

 

5は、ラモトリギンを飲んでいるおかげだと思う。人に急に連絡を取ったり、大きなことを言ったり、買い物をしすぎたり、ということがなくなった。逆に言うと、大きなことを言ったり、自信過剰になったり、人との距離を詰めすぎたりしたのは、双極性障害の症状だったのだ、とわかった。

これはかなりの衝撃を伴う発見だった。そして、過去の自分が急に疎ましく、そして、今までかかわった人々に申し訳なく感じた。

 

それでも、今もかかわってくれている人がいてありがたい。

過去を振り返って。じぶんをいじめるのではなく、今を感謝して、未来を謳歌して暮らしたい。

 

自分の病気が性格や人格に及ぼす影響が大きくて、戸惑う。これまで、自分を嫌だなと思うことはよくあったけれど、それは、病気のせいだったのだ。人を困惑させて、困らせて、それを自分で読み取ることができるのに、言動を改めることができなかったのは、そういうわけだったのかと。

逆に言えば、病気をコントロールできれば、そうした迷惑を生じさせなくて済む。

今まで迷惑をかけた相手も、うんざりしたら、わたしから手を引く自由があったわけだから、それほど大きな迷惑をかけていないと思いたい。

 

こんなことを言ってはいけないかもしれないけれど、わたしも迷惑をかけられたこともあるし、一方的な関係は、親子を除いてあまりないはずだから、一方的に迷惑をかけ続けたことはないんだと思いたい。

 

うつと躁の切り替えは早く、相変わらず、一日二日、体が重くて起き上がれないかと思えば、次の日は羽が生えたように軽くなる。

 

ネットで躁鬱のことを調べると、必ず、ラピットサイクラーにならないように、と書いてある。それを見ると憂鬱になる。そんなに避けなくてはいけないほどのことなのに、もうなっちゃっているよ!と。

 

それにしても、そうまでして避けなくてはならないラピットサイクラーってなんだろう。何がダメなんだろう?病気をダメだと言われているわけじゃないんだとわかるけど、思い込みが激しい期(うつのとき)に気になってしまう。

二つの極を行ったり来たりすると疲れるからかな。

 

ラピットサイクラーも悪いことばかりじゃないと言いたい。一日二日我慢したらその状態は変わると思えることはよい。

 

 

躁鬱混合状態に金曜日から火曜日になったけれど、躁鬱混合だなと思って、刺激を抑えて過ごしたら収まった。

これは、睡眠時間の記録を付けていたおかげでわかった。睡眠時間が少ない時は、そう状態がベースにあること。睡眠時間が短いのに、気落ちして体が動かないのは、躁鬱混合だ。これに対しては、死なないようにするために、刺激を減らすことで対処するしかない。

躁鬱混合になるきっかけはよくわからない。今後、研究していきたい。

 

大事なのは、自分の病状を理解して、コントロールすること、今どういう状態か把握するために、記録を付けること。

ケア会議

一週間前に、ケア会議もあった。

死にたいと言って包丁を出してしまうこともあるし、料理をするのが難しい時もある、ということを話した。でも、できることは増えていて、水回りの掃除ができるようになったとも話した。

 

 

やっぱり、話している間に気持ちが高ぶって泣いてしまう。

保健師さんも同席してくれたので、いろいろ細かいことを筋道だって質問しれくれたので、話しやすかった。

 

体のケア

ベースになるのは体だ。体調をよくするために、こまめに病院に通うことにした。

正直に言えば面倒だけど、でも、疲れたり風邪をひいたりすると、躁鬱も悪くなるので、躁鬱コントロールのうちだと思っている。

耳鼻科や歯科に通って、自分のメンテナンスをしている。だいぶ暮らしやすくなったと感じた。鼻の通りがよくなると、頭の回転がよくなったような気持になる。歯は、三十過ぎたら歯周病のケアをしなくてはならないらしく、こまめに通っている。

美容

アレルギーも、皮膚科に通って治療している。最近は、美容液とヘアオイルのかぶれていた。ちょっと高級だと、アーモンドオイルやヘーゼルナッツオイルなど、ナッツ系のオイルが入っている。

それがダメだ。

安物はミネラルオイルなどの石油からできた合成油だから、そういうののほうが素材として安定しているので、安心して使える。化学ばんざいだ。

それに、安物のほうが、商品開発に努めているので、随時ブラッシュアップされているという意見を見たが、その通りだと思う。

化粧品も、プチプラをこまめに買い替えたほうが、肌に良い気がする。そもそもデパコスにかぶれたことはあっても、プチプラでかぶれたことはない。

今は、いっそのこと、今まで使っていた化粧品を全部捨てて、プチプラに買い替えようかと悩んでいる。すぐ消費期限が来ちゃうんだよね。化粧品ってなかなか減らないし。肌荒れしたら、美容どころじゃないし。躁鬱が二巡しても気持ちが変わらなかったら捨てよう。

 

いつ、重要な判断をするか

よく、うつや躁鬱だと、重要な決断をしないほうがいいと書いてある。

でも、自分の状態がどうあれ、決断しないといけない理由が外部からやってくることもある。そうしたときには、決断をせざるを得ない。

 

自分の人生を生きて、自分でかじ取りをしたいのであれば、決断したほうがいい。自分の病気は緩解すれども治らない。緩解するまでいろいろなことが待ってもらえればいいけど、刻一刻と時間は過ぎていく。その間の人生を、空白にしたくない。

病気だけに向き合って何年も過ぎたら、何のために生きているんだろうと思う。

わたしは、病気があっても、自分自身の人生を歩みたい。そういう強い希望がある。

そのために、やらかしエピソードは増えていく一方で、自分を傷つけることも多い。だけど、重要な決断を求められる時って、健康な人でも平静ではないはず。

だから、病気を理由に決断をしないで流れに身を任せるのではなく、選び取っていきたい。

 

そうはいっても、時間をかけて、躁の時と、うつの時と、決断が変わらないか確かめることはしたい。とくに、人を巻き込んだり、かかわったりするときには、気を付けたい。

 

やらかしへの悩み(対人編)

大きな決断ではないけれど、わたしがよくやらかしてしまって、あとで後悔する。人に何かをもらってもらうとき、それは本当にあげても失礼にならないか、とか。なにかしてもらうとき、するとき、相手の負担になっていないか、とかそういうことを十分に考えていないで、勢いだけでしてしまって、迷惑をかけて、交流が切断してしまうことが多い。許してもらっても、気まずくなって、謝っても謝り足りないのではないかと思って、うざい存在になる。お医者さんが「自責しすぎると人は厄介な存在になる。人の話を聞かなくなるから」と言っていたが、その通りだと思う。

反省すれども、自責なし」これを座右の銘に刻んでおきたいくらいだ。

 

自分でも何年も後悔する。

そういうことを、やらかしたあとに考えて時すでに遅し、となることが多いので、事前に、そこは十分に考えて行動したい。できれば、今後は、人に何かをもらってもらうときには、金券だけしか送らないようにしていきたい…。

あとは、ある程度、自分はやらかしてしまうのだ、と割り切って、それでも交流してもらえる相手とだけ、交流して、やらかしてしまったときには、誠心誠意謝る、ことくらいしか対策が思いつかない。

 

私はうつ状態のほうが躁状態よりも楽だと思うのは、やらかし度が少ないからだ。

うつのほうが苦痛は大きいけれど、やらかすよりもましだ。

躁状態の時、対人以外のやらかし、例えば、買い物をしすぎるのは、家計にダメージがあっても、人間関係にひびが入らない。そっちのほうがましだ。

 

人に対してやらかさないためには、人と関わらないのが一番いいけれど、それはそれでだめだから、人との適切な距離を取りたい。今は下手だけどいつか適切な距離が取れるはずだ。

 

双極性障害のネガ面について思うこと

 ラモトリギンが175㎎に増えた。

ラモトリギンが増えた

ラモトリギンをはじめて数か月たった。

プラスエビリファイを24㎎飲み始めた。

ラモトリギンの副作用である皮膚疾患は出なかった。

気分障害の波は、相変わらずある。

でも、イラつきがだんだんコントロールできているような気がする。

今イラついていると気づいて、クールダウンするための行動をとるための猶予ができたというか。

 

今までは、気が付いた時にはキレていた。

けれど、今は切れそうになる前や、イラつきそうだと思ってから、一分くらい間があるので、イラつきそうだなと思った時点で対処できている。

病気について理解したい

ふと思いついて、自分の病気がどんなものか知りたいと思った。

わたしは、診断がついてから、自分の症状をどうにかするのに精いっぱいで、自分の病気がどんなものかよく知らないことに気づいた。

だから、ネットでだけど調べてみた。そうしたら、人に迷惑をかけるひどい病気だなと思えて落ち込んだ。生きていたら誰でも迷惑なんかかけるけど。自分の言動が、病気のせいだって思いたくない。

 

でも、それで救われる部分もある。なぜならば、自分のやらかした黒歴史が自分のせいというより、病気のせいだとわかったから、切り離せるからだ。

 

やらかしエピソードのほとんどに自分が当てはまって、自分の苦しんでいたことって、躁鬱のせいだったんだなあと思った。

特に、性的逸脱はそうだったらしい。あと、気が大きくなって人を住まわせたこともあった。なんか、今思うと何してただろうと思ったんだけど、人に親切にしたかったんだよね。でも、お互いによくなかったと思う。

かえって、嫌な思いをさせることになってしまったから今は申し訳ない。

 

 

病気だから仕方がない部分もあるけれど、他人さまから見たら、そんなのは関係がなくて、単なる迷惑に過ぎない。いわゆる迷惑行為をしたことはたぶんないのだけど、それでも、自分の言動が変な時があって、そのとき、変な人だなと思われるのはつらい。つらいし、あとから、相手に嫌な思いをさせて申し訳ない。

ひどい病気だなあ。

 

よくなってきたこと

こうして冷静に自分の病気について考えられるようになったのは進歩だ。

躁状態になったときに、やらかすことが減った。

ラピットサイクラーだから、三日ごとに切り替わって、三日うつ、三日躁の繰り返し。

だけど、よくなっている部分もある。今も、うつの時は、億劫でつらいなとは思うけれど、体がしんどいわりに家事もできている。ただ、調理がしんどくて、レトルト調理が多くなってきた。

 

 

連れ合いとの関係

落ち込みやすいけれど、自分の根は陽気だから、そこの部分で人づきあいが持っているように思える。現実では、ネットと違って冗談をよく言うし、よく遊んでいる。

 

とはいえ、病気に付き合う連れ合いはよく我慢しているなあと思っている。

彼にとってのメリットって何だろうと思ってしまうときがある。

一緒にいると楽しいし面白いからだと言ってくれるし、一度決めたことだからとも言っていた。

 

だけど、つらいんじゃないかなと心配になる。特に、こちらがわーっとなって、連れ合いを責めたり、自分を責めたりしているとき、彼はなるべく動揺しないように頑張ってくれているそうで、申し訳ないとも思う一方で、すごく助かっている。

 

この前、躁鬱混合時に、死にたいと思って包丁を出して「死ぬしかない」といったときも「やめなよ」と言ってくれたので、安心して死ぬのをやめることにした。こういうのも、普通しんどいことだから、よく対処してくれるよな、と感心する。

健康のためにしていること

相変わらず筋トレとぬか床は続いている。ぬか床は面倒じゃないかとよく聞かれるけれど、冷蔵庫で管理しているから毎日はかき回さなくて大丈夫だ。野菜がたくさん摂れるので重宝している。特にキュウリがおいしい。

 

社会との接点

最近は、週二の仕事がしんどくて、休んでしまいたいことも多い。だけど、社会との接点は貴重だから、なんとか続けている。

仕事をしている間は、家から離れるから、リハビリになっている。

この病気は、孤独になるのが悪いようだから、社会との接点は大事だ。

私の社会の接点は、保育園、訪問介護、仕事だから、どれかが欠けるとよくない。

最近の葛藤

支援を受けることについて、申し訳ないと思うんだけど、実際、何に対して申し訳ないのか、自分でもよくわからない。

 

頑張ればできるはずなのに、頑張れないから、ダメだなと思うときが多い。でも、頑張れないのが現実だから、人に頼る。

昨日観た光のお父さんで「役割がなくなってしまうと生きる意味がなくなったように感じた」と言っている箇所があったんだけど、すごくよくわかる。

 

役割なんてなくても生きていいに決まっているといえればいいのだけど、役割がない人生はむなしい。

役に立たない自分が情けなくなる。そんなことを思う必要はないんだけど思っちゃうのは仕方がない。

 

それを突き詰めていけば、働いている人も、別にその仕事の代わりはいるんだから生きていても意味ないし、家族がいても、家族の役に立ってなかったら生きている意味ないし、となって、みんな生きる意味はない。けど、生きているほうが変わった経験ができて面白いから、生きてるんだよなと思う。

 

自分で書いていてもよくわからなくなったんだけど、

  • 生きていてもいいのか
  • 迷惑をかけている
  • 役割がなくて、むなしい(実際はあるけど思ってしまう)

というのが悩みなのかな。

 

今後

気分の波を減らすことで、体力の消耗を抑えたい。

フラッシュバックをやり過ごすすべを磨きたい。

それによって、時間を作り出して、楽しく過ごしたい。

自己憐憫やフラッシュバックにおぼれず、今の時間を大切にして、今を生きたい。

フラッシュバックにおぼれると、過去に生きてしまって、今の時間を失ってしまい、ますますむなしくなるから、楽しいことをして、そちらに注意を向けて、ちゃんと生きてたい。

躁鬱混合、薬物療法、他

昨日は、診察に行ってきた。

 

薬物療法で収まる症状、収まらない特性について

気分の上下については、薬が効いて収まる。

今は、気持ちは抑うつ的(死にたい、消えたい)だが、体はすっと動くので、どうしたのかと思っていた。

それは、躁鬱混合だとのこと。五月初めの具合の悪さと同じくらいだと思っていたから納得した。

ベースがそう状態かうつ状態か判断するには、睡眠時間を見るとよいらしい。

午前三時に起きることが続いているので、これは、そう状態がベースだということ。そう状態だと、睡眠時間が短くなるそうだ。

 

そう状態だとすっと体が動いてしまうので、うつ状態よりも危険だとのこと。

確かに、「不穏」になるのは、体が動くとき。動けないでヤダヤダだるい、動けない、つらい、というときには「もう駄目だ死ぬしかない」と言って包丁を取り出したりはしない。包丁を取り出して死のうとしたと言ったら、エビリファイを増やすことになった。

突発的な行動力を抑えることができるらしい。

 

反省と落ち込みの違い

 

うまくいかないときに、死ぬしかないと思い詰めるほど、極端に落ち込みがひどいことについては、今のところ、考え方のくせによるものらしい。

いろいろな歴史がそうさせるのだとのこと。

 

これは、薬で治せるものではないので、少しずつ、自分の課題として、うまくしのいでいくべきことらしい。

 

落ち込みは感情ベースで、反省は理性ベース。感情は大事だけど何もかも勘定に飲み込まれてしまうと、収拾がつかなくなるから、なにかまずいことをしてしまったら、反省すればいい。

 

邪魔をしてしまった、人の話をさえぎってしまった、というのは、ダメじゃない。特性だからダメってわけじゃない。けど、直したほうがいいことだから、落ち込むんじゃなくて、反省したらいいと言われた。

 

認識すると傾向が分かるようになるので、対策が立てられる。

 

病気と個性についての私見

 

病気というのは、その人の個性が出るんじゃないかと、私は思っている。同じ病気でも症状にはその人らしさが反映されるし、なった病気の選択も、その人の「らしい」部分が出るように思っている。ただ、私の極端な悲嘆と喜びは、もともともあるけれど、病気がさせていることじゃないかなと思う。

先生に、個性的だから面白い人だよねと言われてうれしかった。どうして個性的か聞いたら思ってもみないことを言ったりしたりするからだと言われた。そして個性的な症状が出ているらしい。

コンサータを飲んだ時の文章を渡したら参考にさせてもらう、飲んでどうなったか知るのはとても勉強になるんだよ、と言って喜んでもらえた。

 

ガスライティング

ツイッターで、Erinさんに「ガスライティング」という言葉を教えてもらった。ついでに、教えてもらったガスライトの映画も見た。連れ合いに字幕を付けてもらって、ようやく話が追えた。めっちゃ怖い話だった。古い映画ってすごいなあ。

現実を書き換えられていくうちに、自分の感情や経験を信じられなくなり、盲目的に従っていき、自罰的になって、何もできなくなる、という経験はよくわかる。わたしもされたことがあるんだと思った。

 

記録することで傾向と対策を練る

個人的な歴史や病気を乗り越えるためには、やっぱり記録が大事だなと思った。

私は記録が好きなのですが、記録には意味があるでしょうか、と心理士さんに聞いたら「自分のことがわかるだけでも意味がある。傾向が分かれば対策が練れる」と言われたのでそうかと思った。睡眠時間も毎日プロットを取っているから、躁鬱混合だとすぐわかってもらえたものな。

 

頭がよくなったらしい

「中途半端に生きてきて、何も成し遂げないまま中途半端に死ぬんだな、と思っていたんですけど、コンサータを飲んで、頭がすっきりしたから、資格を取ろうかという気になった」と話したら、それはいいことだと言われた。

「意味はないと思うんですけど、意味がないと思ってやらなかったらもっと無意味だし」

と言ったら、

「意味ないことないよ。勉強をすると頭を使う。頭を使えば活性化する。それはいいことです」と言われた。

「本を読めるようになったんですよね」

「本を読めるようになるくらい、集中力が上がって、理解度が上がった。頭がよくなった、ってことだね、よかったね」

コンサータを飲むと頭がよくなるんですか」

「集中力が上がって、理解できなかったものが新しく理解できたならよくなったといえるでしょう」

とのこと。

 

心理士さんに相談したこと

探し物を探すと、イライラするので、しまう場所を決めた、が全開だったので、それがうまくいったことを報告した。

そして、今度は、「イライラ」が困っていると相談をした。

 

うまくいかないときに、頭に血が上りやすい。これは、躁鬱混合とも関係があるそうだけど、このままだと、連れ合いにDVをするんじゃないかと心配になっている。

 

気をそらすことをしてもいるんだけど、気をそらすことがうまくいくのはフラッシュバックが主で、瞬間的にかっとなるのは、そのやり方だと間に合わない、という話をした。

 

とりあえず、記録を取って、傾向と対策を練ることにした。記録によると、朝と夜にイライラしている。これは、水分不足、疲れ、目が覚めていない、コンサータが効いていない、などが考えられる。

 

 

今後の課題(物への執着、失敗への落ち込み)

捨てたものが気になってつらいことも話した。買い戻したくなる。

どうして捨てたかと聞かれて考えてみたんだけど「捨てないといけない気がした」からなんだよね。なんで、捨てなきゃいけないと思ったんだろう?

そこに課題があるような気がする。

今日は、それほど切羽詰まった気持じゃない。まだ、買い戻したい気持ちは続いているけれど……。

捨ててしまったものへの執着心が、定期的に強まるんだけれど、これは何を意味しているのかを知りたい。

 

物に対する執着がない人がうらやましい。めちゃくちゃ執着するから。

失敗したことに対する気分の落ち込みと、失ったものを嘆く気持ちについての考察を今後の課題にすることにしたい。