双極性障害・ASD・ADHD

生活上の双極性障害への工夫について

電話診察・鬱寄りの混合状態

今日は電話診断だった。

コロナの影響で、電話診察もOKになっており、ラミクタールとエビリファイは二か月出してもらっていて、コンサータは一か月なので、診察をお願いする電話をした。

木曜日に電話予約をして、月曜日の朝に電話がかかってきた。処方箋は、薬局に送ってもらえる。

 

やっぱり、先生の声を聞くと落ち着くし安心する。

確認したいことも聞けたので良かった。

 

今自分がそわそわしていて、落ち着かないこと、睡眠時間が六時間くらいで、朝五時くらいに目が覚めてしまうことや、買わないといけないものが買えないことなどを話した。

睡眠時間が短いから躁かなと思っていたけれど、鬱に近いらしい。

思っていることやわかっていることが言葉にならない、というのも、「思考渋滞」という鬱の症状らしかった。

思っていることから気がそれてしまって言い忘れたり、思っていることが言葉に出せなかったりしたり、ぶつぶつと途切れ途切れになることが多いのは、発達障害の凸凹なのかなと思っていたけれど、もしそうなら常にそうなるから、今だけってことなら鬱の症状だということだった。

 

高齢者が鬱になると、痴ほうを疑われてしまうのは、思考渋滞になって言葉がうまくでなくなるかららしい。

 

私は躁になると、言葉が止められないくらいポンポン出るから、そういう感じじゃないから、今は、鬱だろうという見立てだった。

 

病気のレコードを取るのは大事だ。

最近、「保育園に預けず自分でみたい日もあった。一日くらい子供を休ませたかった」と泣いてけんかをしたのだけど、そうしたら「それどころじゃないくらい具合が悪かった。日記を見てみればいい」と言われて、この時期の二年分の日記をさかのぼってみたら、具合が悪かったことが書いてあり、配偶者の言うことは間違っていなかったということがあった。自分で覚えているよりも具合が悪かった。

 

なので、自分がどういう状況なのか、冷静に見るためには、一言だけ「具合悪い」だけであっても、書けばどういう状況か、後でわかってよい。それがわかると、春は調子が悪い、とか、去年よりはましだということも分かる。だから、五年日記を買ったのはとてもいいことだった。

 

 

先々月に、先生が「不自由がなければいいじゃない」と言った。それをなんでかよく覚えていて、先生は何の気なしに言ったんだろうけれど、私には響いた。

そして、不安になったり、うまくいかないことがあったり、自分の体の問題(目が悪いとか歯が欠けたとか)、そういうどうしようもないことについても、「不自由はないからいいじゃない」と自分に言い聞かせることで楽になる。問題の先送りもできるようになった。それを言ったら、言葉に対して鋭いと言ってもらえて嬉しかった。

鋭いですか、と聞いたら、オリジナリティーもあって話していて面白いと言ってもらった。

また、病気のことを書き留めてみせますと言ったら見せてもらいたいと言ってもらった。

書くと、自分で知らなかった気持ちや、考えが出てきて、「実はこういう風に感じていたり、考えていたのか」ということがわかって、ちょっとすっきりする。

 

 

 夏まではコロナが落ち着いているだろうけれど、秋になればまた状況がわからないとのことだったので、行けるうちに顔を見たいと伝えて、次の診察は来月になった。



先生は「どうせ自粛だからおとなしくしていられるんだと思えばいい。もし、躁だったら、外に出たいのに抑えるのが大変だから鬱にもよい面があると思うってやりすごして」って言った。それは本当にそうだ。

もう、自粛ムードが明けてきたけれどどうか、と聞いてみたら、まだまだ自粛だと返ってきた。先月は、恐れすぎてもよくないと言っていた。先生のスタンスは変わっていないはずなので、どういうことかというと、先月はたぶん、私が極度に恐れすぎていて、今月は、私が楽観的になりすぎているんだろう。

 

もっと夏めいてくれば、鬱状態も減って、元気になる。来年は、春に鬱っぽくなっても、気にならないくらいに元気になるかもしれない、今は具合が悪いかもしれないけど、ずっとじゃない。

私は、躁になることを恐れているけれど、気分だけで言えば、躁のほうが気持ちは楽なので、そのいい部分を見て、躁をコントロールすることを目指せば、躁でもちゃんと暮らせるんだと思えばいい。躁になってから、躁的な行動を落ち着かせるのは難しいけれど、躁の入り口で、それをキャッチできれば、行動をする前に相談するとか、またはもっと違う方法でかはわからないけど、波を低くする工夫ができるはずだ。

前主治医も、工夫が大事だとよく言っていた。変えられないこともあるけれど、乗りこなすための工夫で、暮らしやすくなると言っていた。

 

 

私は言葉にできないくらい細かい工夫をたくさんしている。

なんとか言葉にするとこういうことがある。

ライフハックなんてすごいものじゃないけど。

日記を書く。人に相談する。ヘルパーさんに来てもらって、身の回りのことをしてもらうだけじゃなくて、外から観察してもらい、自分の状況が客観的に見てどうか、とか、ケアマネさんを通して行政につながって孤立しないようにもしている。

躁になったり、多動が出たりすると、お金をバンバン使ってしまうので、お金の管理を人に頼む(今は配偶者にしてもらっているが、行政がしているお金を管理してくれるサービスも検討していた)。

 

食べ過ぎないようにする工夫もある。食べ過ぎない工夫は、前、栄養バランスを崩さないで食べないといけないという不安が強くあったから、それを補うために食べたり、眠気を押さえたくて食べたりしていたのが、一つ目は栄養バランスはなかなか崩れないものだと考えを変えた。体調を崩すのが不安だったから食べていたけど、食べ過ぎて太り、体調を崩すということがあってそれは本末転倒だったとわかったから、その事実をよく考えた。

野菜を毎日採る、採れなかったら野菜ジュースを飲む、たんぱく質は三日スパンで考えて、一日一食だけでも採れたらいいくらいに考えるようにした。足りないと思ってから採るのでも間に合う。おなかがすいたらどうしようと思っていたけれど、すいてから食べればいい、すいても別に困らないと考えるようにした。

 

バッグも毎回入れ替えて、荷物が重くならないようにした。財布とポーチ、スマホだけは必ず入れるようにしている。無駄なものがたくさん入っていると、かえってなくしものをすることが多かったので。そして、無意識に物を置いてなくすことが多かったので、意識したり、習慣づけたりして同じ場所に置くように変えた。

 

こういう細かい、言葉にできないような工夫を積み重ねていけば、生活が落ち着き、生活が落ち着けば、躁鬱もちょっとは乗りこなしやすくなるはずだから、それを目指して心掛けていきたい。

手が痛く、感覚過敏もつらく

最近はそれほど調子が悪くないと思っていたのだけれど、じわじわと病んでいるなと思ってきました。

まず、きっかけになったのは、手湿疹です。

掌全体の皮膚が剥がれ落ちてしまい、亜鉛華軟膏でほごしているものの、皮膚ができてはまたかゆみでひっかいて裂けてしまうというのを繰り返しています。

 

それで、体がしんどくなっていました。

感覚過敏もつらくて、今まで着られた服の感触がダメになったり、締め付けていると感じたり、色がダメになったりしています。

しかたがないので、大丈夫そうな服を買いましたが、今度は、服が多すぎるから捨てなきゃとなってそれはそれでツライです。

 

夜も眠れなくなってきて、起きているんですが、主に食べてしまっています。太るからヤダなと思うんですが、食べちゃって、自己嫌悪に陥ってつらいです。太ったんじゃないかと夫に聞くけれど、きのせいじゃない?と言われています。やさしいうそなんじゃないだろうか…。

 

コロナの自粛が強い頃は、情報にさらされに行くと病むなと思ってあえてみないでいたのですが、自粛ムードが明けて、油断してみてしまっていたのが、敗因かなと思います。

あと、買わないといけないものがあって、それを選ぶことで、ちょっと悪いハイになっているんじゃないかなと思います。ハイにも楽しいのと楽しくないのがあって、今きているハイは楽しくないですね。焦燥感と緊張感がある。

 

ニッセンでウッドシェルフを買おうと思います。ニトリで買おうかと思ったけど、思いついてシェルフで検索したらいろいろでてきたんですが、ニッセンのにしようかなと思いました。ニッセンの家具は買ったことがあって、けっこう信頼しているので。無印や本棚屋でもいいんだよなとまだ迷ってはいますが。

 

 

感覚過敏がつらいと、家の中にいる間は時計をはずしたり、服を脱いだりしがちです。

ほっとフラッシュみたいな感じで冷や汗をかくんですよね。それで暑いのか寒いのかわからなくなります。

 

躁か鬱かで言うと、睡眠時間から考えれば、たぶん躁なんです。気を付けないとな。

毎日何かしら気を付けて慎重に暮らして、気分の変調を悪化させないように薄氷を踏むような気持でいるんですが、躁の時には相談しないで大金を使いがちなので、なるべく何かする前には相談するようにします。なんでも許可を取る人間みたいで情けなくなるんですが、しかたがないです。

#世界自閉症啓発デー に関して

私はASDと診断されている。

 

 

ASD単体ではなく、疾病が組み合わさっている

 

ASD単体よりも、双極性障害ADHDの多動が組み合わさって、困っていることが多いと思う。

こだわりと衝動性、多動が組み合わさると、火のことを忘れて火事になりかけたり、散らかしてしまったり、多額の買い物をしてしまったりする。イライラして、かんしゃくを起こして、叫びだしてしまうこともある。自分で自分のことを許せなくて、たたいてしまうこともある。夜中にひたすら模様替えをしてしまうことを一か月続けることもある。寒暖の差にも弱く、いつも疲れ切ってしまっている。同じものをずっと食べて、栄養が偏り、太ってしまったこともある。

 

ASDだと空気が読めない、だとか、アスペとか、ガイジだとか心無い言葉を使う人がいる。

でも、実際には、そういうことを言う人ばかりじゃなくて、理解してくれる人もいる。

私は今、アルバイトだけれど働いている。

塾講師の仕事は、環境や場面、会話内容、目標が限定されていて、人も毎回同じ、時間も夕方から夜で短いから勤められるのだろう。

自分の困難を伝えるすべを身に着けた

私はおそらく積極奇異型だった。人間関係には苦労してきた。周りの人に迷惑をかけていた。しかもADHDもあるから、衝動的に人と関わるので、事態を悪化させてきた。

発達が遅く、同年代の人と話が合わなかったので、年齢が高い人と接してもらうことが多かった。同年代の人に比べておそらく幼かった。

だから、それを大目に見てくれる人と仲良くさせてもらっていた。

 

けれど、私は積極奇異だったからこそ、人に迷惑をかけて申し訳なかったけれど、トライアンドエラーが繰り返せたので、自分が困っていることを伝えるすべが磨かれ、大人になってから支援とつながれた。

 

それまでは、散らかった部屋に住むと、混乱して具合が悪くなるのに、部屋の片づけができず、双極性障害もあいまって横になって寝ていることも多かった。

外に出ると、音やにおいの刺激が強くて疲れ切ってしまう。

躁状態の時に、こだわりが強さが災いし、ADHDの多動と衝動性が加わって、同じものを何度も購入してしまい、多額のお金を使い果たしてしまった。今は落ち着いているものの、あれが続いていたら、人生が破綻してしまっただろう。

 

そうした苦労から生きのびたのは、医療と社会の制度のおかげだ。

今は、一週間に二回ヘルパーさんに来てもらい、話を聞いてもらいながら、一緒に片付けや掃除をしている。それで気持ちが落ち着いて、部屋も刺激が少ないように整頓できている。

脳の特性

私には脳に特性があって、多くの人とは違うものの考え方や、感じ方をする。自分でどう違うのかわかれば、対処もできるけれど、脳が違うので、いろいろなことを観察して、考えて、対処するしかないので、時間と労力がかかる。だから、自然にできる人に比べて、疲れやすい。

流れに沿うことができなかったり、場にそぐわない行動をしてしまって、誤解を受けたこともある。

その誤解を解くために、障害のことを話せばわかりやすいのかもしれないけれど、障害について、差別をする相手だったらと思うので、障害のことは出せない。また、障害に理解がなければ、障害を言い訳にして、自分の失敗をごまかそうとしていると思われるのも怖い。自分でも、障害があるから仕方がない、ということと、障害があるのだから大目に見てもらって許してもらおう、ということが、ずるさと言われてしまえば、そうかもしれないと思うし、どう違うのかわからなくなるので、黙っている。

 

私には幸い得意なことがあるので、それを武器に世の中を渡っていくことが何とかできそうだ。でも、得意なことがなくても、幸せに暮らせることが理想だと思う。それは、ASDであってもなくても、そうだとよい。今はそうじゃなくても、いつかそうなるとよい。

ギフテッドという言葉について

よく、ギフテッドという言葉で、自閉症でも、得意なことがあればいい、という風に考える人もいるけれど、それは「自閉症でも特技があれば特別に許してあげよう」という考えと近づきやすく、私は「役に立たなければ世の中に必要ない人間なのだ」というメッセージに受け取ってしまうので、ギフテッドという言葉がつらい。

自分が特別な人間じゃないとわかっているので、才能があるはずだと期待されることがつらい。今は、そういう人が身の回りにいないし、そもそも自閉症だと打ち明けている相手が家族と職場の人と医療と介護の人だけで、全員理解があるので、才能を期待されることがないのでとても気が楽だ。

 

人のいいところを見ようとすることと、ギフテッドじゃないのかと才能を探すこととは、似ているようで違う。

前者は、あるがままを受け止めるというスタンスを感じるけれど、後者は役に立てば障害を許してあげるというスタンスに感じる。

病院に行けという言葉が悲しい

本当に、障害があって、足りない部分があっても、それを補うならば存在を許してやるというスタンスの人はいる。いるし、何かあると、人に「病院に行け」という人もいる。

この言葉は、精神疾患の人を区別して、さらに、病院に行って隔離したいという願望を感じる。また、障害者を病院に丸投げして、社会がもつ責任を果たさない。病院に行けば、障害は治るという誤解もあるので、病院に行けという言葉は苦手だ。

私は、存在を許してもらう必要はないと思っている。

確かに、障害ゆえに、迷惑をかけたり、負担をかけたりすることは間違いなくある。配慮を求めることは、求められる人にとって、負担だろう。

だから、こちらも、求める相手に対して、親切な気持ちや、前向きな気持ちをもって接する必要があると思う。

それは、前に書いたことと矛盾しない、お互い気持ちよく暮らすための工夫だと思う。

あえて、私たちと書くと、私たちは、確かに存在していて、存在を消すことができない。存在を消すことができない者同士が、共存するためには、お互いの理解が必要だ。

だから、私は、ASDではない人の特性や、苦労を知りたい。その中で、自分との違いが分かれば、その違いの溝を渡れる日が来るはずだ。

 

結婚式の時に、祝福の場なのに、結婚する人たちへの皮肉を言ってしまって、友達にたしなめられたことを今でも覚えている。私への理解と思いやりを感じた。嫌悪はなかった。私は時間がかかったけれど、それが悪かったとわかった。

 

普通の人に擬態するのはとても疲れる。脳の違いをごまかして、観察と記憶をもとにトレースする。普通なんてないという人もいるけれど、私から見ると普通はある。

私は、世の中の多くの人と脳が違う。それぞれ脳の違いはあるけれど、大きく違う。そうした目線から見ると、普通はあると感じる。私は自分を普通から外れていると感じる。

それは、寂しいことではあるけど、悲しいことではないと思う。

自分の障害は自分に合っていると感じる

私は自分の視点を面白いと思う。そして、人から興味を持ってもらうきっかけになっていると思う。ネットでは、自分の障害を明らかにしているので、自己紹介の代わりになる。時には、それが人を惹きつけるフックになっているとさえ思う。

障害があってよかったなんてとても思えることはないけれど、自分で障害を乗りこなしていくことはできると思う。

年齢の効果によって、感覚や感性が鈍くなり、そのために苦しんでいたことが薄らいできた。

双極性障害は二次障害だ。二次障害になると、人生の終わりだみたいに言う人がいるけれど、良くも悪くも、まったく終わりではない。そのあとも人生は続く。

善い面を言えば、自分なりに楽しいことも喜ばしいこともある。できるようになって嬉しいこともある。それは、できないという状態があるから嬉しい。できないことが多い人のほうが、喜びの純度は高いと思う。できるのが当たり前の人は、何かできたからと言って、いちいち喜んでいないんじゃないだろうか。

 私の障害に向き合ってくれる主治医の先生、心理士さん、ヘルパーさん、私の障害を知らないけれど大目に見て一緒に時間を過ごしてくれる友達がいて、私は幸福に暮らせている。

大変なことも多いけれど、やりくりができるならばそれでよいと思う。

大切なのは人だ。人と関わるのが難しい障害だけれど、だからこそ、良い出会いも多い。人に救われている。

双極性障害、発達障害への受容が少し進んだ

眼科の病院で「自分の体を完璧にしたいと思うのは支配欲で自分を苦しくさせるから、何もかも受け入れて過ごしたほうが幸せだよ。あれがダメだこれがダメだと言っていると、自分のことばかりになり、不幸せだから、人のために生きたほうがいい」と言われてそれもそうだなと思いました。

自分のことばかり言っていると、自縄自縛になります。視野が狭くなって、自分や過去について細かく細かく掘り下げて考えて、自家中毒気味になるので、自分のことは深く考えずに、人に親切にしていたほうが楽だなと思いました。自分のことを考えているよりも周りのことを考えているほうが気楽です。

これが行き過ぎると自分の人生を放棄することにもなるんでしょうけれど、適量を守れば、人のためになることで自分が楽になればこんなにいいことはないです。

 

そのため、仕事を一生懸命やって喜んでもらうとか、バイト仲間のスマホの設定や、料金の見直しを一緒にするとか、そういうことをしていると「優しい」と言われるようになりました。

人が変わったと四人くらいに言われてちょっと気をよくしています。

そして、薬が効いてきて、落ち着いて物事を考えられるようになり、短慮で人と喧嘩をしたり、付き合い方を誤って、人を傷つけたり自分を傷つけたりすることも減ってきました。

 

年齢による効果で、気分のやり過ごし方、常識のわきまえ方を知ったと思います。

周囲に常識が全然ない人に意地悪をされているのですが、そういう人でも恥を知らずに生きていられるんだから私もまあ生きていてもいいかなと思います。

 

人の役に立ちたいと思いすぎても、「役に立てないのだから生きていても仕方がない」と思ってしまいますが、人の役に立つという結果じゃなくて、人のために何かできることを探してみるという過程に目を向ければいいのかなと思います。

 

私は今、自分の障害、疾病をそんなに悪いものじゃないと感じています。

これを言ったら主治医は静かに喜んでくれ「何も付け加えることはないです」と言っていました。

今後、薬が減ることはないけれど、効果が安定してくるからもっと楽になるとのことでした。

 

 

自分の障害が自分に合っていると思った理由、それは、私の障害や疾病が脳の特性によるものだから、自分のキャラクターと密接につながっているので、これらがなければ、私は私じゃないと感じるからです。

また、これらの特性は、人の魅力のフックになっていると思います。人の魅力は、とがったところとへこんだところだと思います。どれだけとがっているかへこんでいるか、そのこと自体が人を惹きつけるのではないかと思うのです。

へこんでいるところやとがっているところは、自分に向けば苦しいばかりだけれど、他人が愛情をこめてみれば、そこは愛すべき特徴に変わるのだろうと思うのです。ただ、愛情をこめてみてもらうためには、人との接し方を工夫しなくてはなりませんが、その工夫の先には愛があるはずです。

 

特性が害を与えることとの裏表として、善い面もあるのではないかと思います。

人の弱さや苦しみに対する共感や、ある種の、ささやかなカリスマ性のようなものや、思いやり、深くものを考えることは、私の特徴です。

愚痴をこぼすときも、相手が面白がれるようなエンターテイメント性を持たせて話す才能があると言ってもらえました。

(自分が愚痴を言ってすっきりもするし、相手もドロドロした昼ドラのような話が聞けて面白い、というような愚痴のスタイルを目指しています。主治医にもそういうタレントがあると言ってもらえました)

裏表なく人と接すること、うそをつかないこと、誠実に過ごすということは、私が心掛けていることでもあり、そして、自分の特性に合ったやり方だとも思います。

 

塾でもほかの先生がさじを投げた発達障害よりの生徒さんを持っていますが、障害があるからダメとは考えずに、自分もそうだからこそ、障害があるから寄り添って話そうと思います。

 

私は、自分の障害が、自分にあっていると思います。ほかの障害だったら相性が悪くてもっと苦しかったのではないかと思います。

頭が悪くないということが自分自身の中で一等好きです。

私は独自の視点で世の中を見られることが自分でも面白いと思います。それは、発達障害ゆえなのかもしれませんし、双極性障害ゆえの始点なのかもしれませんが、どうやら人とは違うようです。それは、脳の性質が違うからなんだと思うと、本当に愉快だなと思います。私が自然に発想し、奇をてらっているわけではないことが、人から見ると変わっていると感じられるならば、それはよいことだと思います。

 

私は自分が生きていくうえで、エンターテイメント性を重視しています。面白かったからそれもよいという考え方です。そうすると、悲惨なことが起きても、何とか生きられます。退屈なのは性に合いません。こうしたスタンスがひどい状況を引き起こしたことが何度もあります。けれど、自分の中でこもっていても、外に出ても、時間は進みます。自分の心の時間を動かすのは、外に出たときです。そして、外に出たときの経験をもとにお話を考えることが好きです。

 

若い頃は、糸の切れたタコのようで衝動性も強く感情が高ぶり人に迷惑もかけていたと思いますが、今も仲良くしてくれる人はいて、そうした人は私に魅力を感じてくれています。十代という一番私が自分を持て余しているときに友達がいたということは大きな自信になります。

私は、大学生のころ祖父の介護をしており、また、その時はうつ病という診断だったので、長期休みを遊んだこともなく、本を読んで過ごしていました。

うつ病なのに介護に駆り出されたことはひどいと思います。恋人も七年くらい付き合った人がいましたけれど、後半の三年はぐちゃぐちゃで相手にされていなかったように思います。でもまあ、面白いこともあったし、こういう私と一緒にいてくれて、まじめに考えていてくれたのはありがたかったし、その時に人との信頼関係を覚えたと思います。

十代二十代は親のことで悩んで人に面白くもない愚痴を話していました。今も愚痴は言いますけれど、周りにおもしろいと言われる愚痴を目指すようになってから、人間関係が良好になってきたと思います。

 

私は結構人に騙されたり襲われたり裏切られてきましたけれども、結果的に人を信じて信頼する心は失わなかったのでそこは、自分でも才能だと思います。本当に良かったと思います。

 

人と人との関係の中で、私も変わってきたと思います。障害をカミングアウトしても’(しなくても)、変わりなく接してくれている人が増えました。親せきは私を葬式にも呼ばなくなりましたが、私が自分で選んだ人間関係の人たちは、私の欠点も含めて愛してくれていると感じています。

 

私は今過眠の鬱で一日十一時間半規則正しく眠っていますが、眠れない鬱よりもいいと主治医に言われており、本当にそうだなと思います。昔なら、自分が鬱だということが自分でかわいそうでつらく思っていましたが、今はつらくありません。

つらいことを避けているからでもありますが、そういう取捨選択を自分でできるようになったのは、年齢の効果だと思います。この年齢になるまで自分を育ててきた自分の成果だとも思います。周囲のおかげでもあります。これは、他者に対する感謝もありますが、もう一つの気持ちがあります。

それは過去の自分が周囲が理解できるように、説明を一生懸命したせいだろうと思います。

誠実を積み重ねていくと、相手にも理解する余地、余裕が生まれます。例えば、接しているときに、相手を限界まで追いつめてさらに理解を求めることには無理があります。

だから、相手を追い詰めないで余裕が持てるようにこちらも接して、信頼を築いてから、こうしてくれると助かるということを小出しにしてきました。そしてそれがうまくいっていると思います。

 

だから、人のおかげであることをもちろん重々承知していて感謝もしているけれど、うぬぼれも含めてあえて書けば、まず自分ががんばってきたことがあり、人間関係を形成してきたからこそ自分の障害を自分に合っていると思えるようになったんだと思います。

性格なのか、病気なのか、どっちかわからない

病院に行ってきました。

双極性障害発達障害を患っているのですが、何が素の自分かわからないのです。

 

今回相談したのは

  • 勉強を教えてもらうとキレてしまう、パートナーをやっかんでしまう
  • 千円の物を多数買ってしまう、悩まずに高額の商品を買ってしまう

ことの二つを相談しました。

 

繰り返し勉強をするのが楽しいか聞かれたんですが、別に楽しくはないです。でも、しないといけないことだと思っていて、毎日しています。

本来は、楽しいからするみたいで……。

でも、楽しくないんですよね。楽しくないならしなかったらいいと言われたんですが、それだと自分がダメになるような気がします……。

 

パートナーは勉強が好きなうえに得意なので、そういうことに劣等感を感じます。彼はできないことが少ない。細かいことではできないことが多いけど、人生で大事なこととか、お金を稼ぐ能力とかは高い。

「劣っていると思って過ごせばいいんじゃない?自分より優れた人と一緒にいるほうがいいじゃない。自分より劣った人としか付き合わないのはやばいよ。勝ち負けで考えているのは性格だよね」

と言われたのでそれはそうかと思ったんですが、なかなか「自分は劣っている」と思って生活できなくないですか?

そもそも、私は何かを楽しいと思ってやっているんだろうか、と思うんです。

ブログを書くのは楽しいのかな……。わからないなー。楽しいって何だろうね。

昨日イチゴ狩りに行ったのは楽しかった!!!

ので、楽しいという感情はあるみたいだ。

心理士さんによると、楽しいという感情は、強い感情だから楽しかったら覚えているはずと言われました。

最近は病状が落ち着いているので診察時間も長くとってもらっているものの、人生相談みたいな感じです。

 

 

千円の物を買うのは多動、高額なものを迷わず買うのは、躁、勝ち負けにこだわるのは性格と言われましたが、そんなものなんだろうか。

今焦点を当てられてるのはASDというよりもADHDのほうで、そういえば、この前も鍋の火をつけっぱなしにして忘れていたので、命にかかわるのはADHDのほうなのかも。

悩まないっていうのは、躁だなーと思います。自分でも。

今は躁じゃなくて鬱なんだと思います。動けてるけれども毎日十時間は寝ているので、鬱気味。それでも買い物はしたいからどうなんだろう。この前狙っていたコートは売り切れてしまって、今でも悲しい。

「何でもは買えないものだ」と言われました。

何でも買いたいんだよね。

「でも、そうすると家の中がガラクタだらけになるでしょう。ガラクタに囲まれて生活すると不衛生だし、落ち着かないよ。断捨離したほうがいいですね」と言われました。

というわけで、今日はいらないコスメを捨てました。こまごまとしたものでも積み重なるとけっこうな量になります。

 

気に入ったコスメを取っておく習性があります。もったいないと思っちゃって、そして、古くなって劣化してしまいました。悲しい……。

コスメの消費期限は数か月らしいんですけど、そんなに使いきれない。

使える量をそれぞれ一つだけ買ったほうがいいんでしょうね。

 

この間、上司に「おっとりしている」と人に紹介されたんですが、自分ではおっとりしていると思えないのです。

子供のころははきはきしていたような気がするし、怖いもの知らずだった気がしますけれど、大人になった今は、怖いものはあるし、はきはきもしていないです。今は攻撃的じゃないと思います(たぶん)。

 

躁状態でガンガン行っていると、局地的にへんなカリスマ性みたいなのが出ちゃって、人の人生も自分の人生も狂わせがちなので、そこはコントロールしたいなと思います。

 

 

 この前手術したので、まだ疲れています。大したことのない手術でも、麻酔をして切ったり縫ったりすると、体にダメージが残って、傷以外にも体がだるいなと思います。

そのせいで、鬱気味なのもあると思います。

 

精神障害に必要なのは、言葉と余裕

私にはできないことがある

私にはできないことがある。

できないことはできないままか、やってもすごく疲れるからやっぱりできない、という種類のことで努力をしてもしなくても結果は変わらない、というようなものだから、それを障害と呼んでいる。
それは足が悪くて歩けない人が歩ける努力をするのに似ている、かもしれない。知り合いに関節がじわじわ固まって動けなくなる病気の人が二人いる。一人は、いつも歩くように努力しているけれど、やっぱりいつかは歩けない日が来てしまう。努力はすごくしている。だから、歩ける状態が続いているけれど、必ず歩けなくなる日は来る。歩くことを手放せなくてずっと痛みに耐えながら歩いている。
もう一人は早々にあきらめて車いすに乗った。そして、行動範囲が広がって、障害者仲間と沖縄のダイビングに行ったそうだ。
どちらがいいかとかそういうことじゃなくて、どちらにしても、失うものはあるし、できないことはある。

頑張って歩いている人には、障害と言っても精神疾患のほうがうらやましいと言われた。自由に歩けるからって。私は今でもどちらがましなのかわからない。私は歩けることを嬉しいなと思って歩いている。私は、頭の中が自由なのは体験したことがないので、どちらがましなのかわからない。

 

私は精神障害を、発達障害双極性障害の二種類持っているのだけど、周りから見ると障害者手帳を取らなくてもいいんじゃない?とか、障害者に見えない、という人もいた。(障碍者雇用の担当だった人に打ち明けたときには、言われてみたらそうかもしれないと言われたけどそれはレア)
障害者手帳を持つと「本当に」障害者になっちゃうよ、というような人もいた。でも、「本当に」障害者なんだよね。障碍者手帳を取っても取らなくても。

障碍者って、書くべきだという人もいるけれど、私は、障害者のままでいいやと思う。だって、自分にとって見たら、本当に障害なのだもの。

私は障害のない状態を経験したことがなかったから、自分が他人と比較して苦しいかどうかはわからなかった。でも、コンサータを飲んで疑似的に健常な世界を見てみたら、ああ、自分には障害があるのだと得心した。

障害を言い訳にするな、というツイートをTwitterでみたけれど、言い訳いわけじゃないんだよね。障害なんだよね。障害を障害と言っているんだよねたいていの人は。

みんな目で見えるものしか理解できない


みんな目で見えるものしかわからないから、足が悪くて走れないことと、脳に問題があってできないことがあることが同じだと思えないんだろう。

私の場合、脳に問題があるので、以下のことがうまくいっていない。それは、自分が思っていることと体がうまく協調できないこと(ASD)、感覚過敏(たぶんADHD由来)、気分をコントロールできないこと(双極性障害)、体を通した情報への処理に負荷がかかること、などがあげられる(まだいっぱい上げられるしそのリストは長い)。そのうえPTSDというか、トラウマのせいで大人の男性が恐ろしいので、彼らが大勢いるような場所ではうまく機能できない。


工夫はいろいろしているのだけれど、工夫をして人並み以下。そして、マイナスをゼロに近づける作業なのですごく疲れる。最初からゼロで、ゼロのままでいる人とは違う。だから、「障害があるからできない」という言い方になる。私は、障害を個性だとも思わない。障害は障害。克服すべきこととも思わない。工夫したら生きやすくはなる。だから個人的には工夫する。ただの障害。いい悪いじゃなくて、不便。私の障害は、社会がどんな風に変わったとしても残ると思う。よく目が悪い人は眼鏡をするでもそれは障害とは思われない、って話が出て、だから障害というのは社会の不備なのだというけれど、社会がどうなっても感覚過敏が減るわけでもない。

その言い方を言い訳だと取る人はいるんだろう。
障害を言い訳にして、やるべきことをしていない、って思うのかな。
でも、障害は障害だから、できないことはできないんだよ。
少なくとも現代ではそうだし、今は現代だから、どうしようもない。

人は必ず年老いて、老いれば必ず衰える。老いを言い訳にしてあれができないこれができないという人を「言い訳するな」というかしら。
言わないよね。でも、同じなんだよ。機能しなくなるってことだから。最初から機能してないか、後から機能しなくなるかの差があるくらいで。まあ、機能していた時期があるというのはうらやましいけれど。

障害はいいわけだという人はその言葉に縛られるんじゃないだろうか。自分が老いたり、周囲が老いたりして、障害を負った状態になったとき、自分の言葉に恥じないで過ごせるんだろうか。案外、自分だけは特別扱いで、「障害を言い訳」にするんじゃないかと思うのだけどどうだろう?

工夫しなきゃいけないこと自体がすでにマイナスだ


そう、障害ってある意味では「ただの能力不足」なのかもしれないね。
ただの能力不足を工夫するべきだっていうならね、その能力不足がもともとない人は何も工夫がいらなくて、いいなって思う。
誰でもその人なりの苦労があるんだろうけど、ある特定の能力に関してはそれがないのだから(だからその点では健常者ってことなら)、それは楽じゃないかって思う。
正直に言うと「私の能力の凹の部分に関して言えば、健常者は楽しているな」と思う。その人にとってゼロのことでも、私の基準ではそこはプラスなんだよね。

まー、そんなんでも、私のことをうらやましいという人はたくさんいる。うらやましいというかずるいと思っている人がいる。
今は困窮していないからだと思うけれど。困窮していた時でもねたまれたからなんだっていいんだろうな。

それこそ「努力した」って思ってほしいけれどそうはならない。
例えば、私が努力していい"御身分"ですね、って思ってる人はいるだろう。それになったことを、「努力したんだから素晴らしいですね」なんて、いう人とても少ないもの。
じゃー、私が「言い訳しないで努力していい"御身分"になれよ」というのも不毛じゃないだろうか。

障害を言い訳にするな、っていう人は、障害を理由に援助されることをずるいと思っているんじゃないかと思うことがある。配慮されていい御身分ですね、みたいな。介護支援や、障害者年金をずるいという人たくさんいるものね。それって、障害を言い訳にしてお金もらってるんじゃねーよ、みたいな感覚なんだろうか。私は障害者年金もらってなくて、介護支援だけ受けているけれどそれをずるいと言われたことがある。

障害者が迷惑かけないようにするのって死ぬしかなくない?

障害を言い訳するな、っていうのはどんな状態か考えているんだけど、かかわるなら迷惑をかけるな、って意味なのかなと思った。
でもそれって、障害者を迷惑だと思ってしまったら、障害者は「迷惑」だから、「隔離しよう」につながっちゃうんじゃないかな。
障害者を隔離しようの考えが行き行く先は、あの悲劇だったのだけれど、あれを受けいれるのだろうか。
精神障害者を社会から隔離した歴史はまだ遠くないので、座敷牢に閉じ込めた結果、どれだけ本人が苦しんで人生を奪われたのか今でも生々しいのに。
障害を「言い訳」にできなかったら、死ぬしかないんでほんとに。なんでかというと、できないことを許されないってことは、自分を許されないってことなので。
そういう世知辛いことはやめましょう。発達障害精神疾患も迷惑っちゃ迷惑で、人に負担をかける障害なのは間違いないけど、でも、いわゆる健常者がどれだけ障害者に迷惑かけているかって言ったら。迷惑っていうか爪弾きだったり、いじめやからかい、嘲笑をかけられた迷惑とも言える。


虐殺もあったしね……。そういう射程の話でもあると思いました。飛躍かもしれないけど。

 

手間暇かけてサポートしてくれるならそりゃーありがたい


 

ただ、このツリーを最後まで読むと、この人は、手間暇かけることを嫌がっていないのです。

 

大体の人は、この手間をかけること自体を「迷惑だ」というので、そういう意味では、「言い訳するな」と言っているけれども、手間とサポートをしている分、近くにいてくれたら助かる障害者は多いだろうと思った。


手間がかからない人のほうが雇いやすいもんなー。それってどうにかしないといけないことだけれど。それが通るとあらゆることが通ってしまう。



それでもサポートの対応してて、申し出を聞き入れて実行してるのは珍しい。



 

結構大変だもの、お茶の入れ方を具体的に指示出して、ここまでお湯を入れるの線を書くような工夫をすることは(ツリー参照)。

 

もしかしたら、「障害を言い訳にしないで、どうしたらいいか教えてくれたら、サポートできるのでお互いいいよね」という話なのかもしれないね。


適応できない、どうにもならない人もいるから必ずしも当てはまるわけじゃないのはわかってほしいけれど。

 

私は、支援につながるまで、自分がどういうサポートを受けられるのかを知らなかったし、工夫をする余地があることを知らなかった。だからすごく大変だった。

工夫をする余地があることを知らないと、どういう風に工夫すればいいかまでも、たどり着かない。(でも、やっぱり感覚過敏については、サポートが入ったとしても、どうしようもない気もする)

ASDには心も感情もある

心がない、感情がないと言われる

 

よく感情がないだとか、心がないだとか言われるASDである自分のことですが、普通に心はありますので、そういう風に言われると悲しくなります。

定型の人に、そこは想像してほしい点です。心がないと言われたとき、相手はどんな風に感じるか、ということです。

心がない相手だと思っても、実は、心のようなものはあって、その人はこれを言われたらとてもショックを受けるのかもしれない、ということを予想してほしいと思うのです。

男性の発達障害の人の傾向への推測

特にカサンドラ症候群の方が「自分の夫は、ASDで、だから心がない。ASDには心がない」というようなことを言います。

でもそれは、ご夫君との相性が悪かったのではないかと思うのです。二人いれば同じくらいコミュニケーションに熱心にならなければ、うまくいきません。片方が頑張っても、もう一人にやる気がなければ、それは悲しくなるでしょう。

本当にお気の毒なことだと思います。

 

私もしてしまいがちなことなのですが、相手の心の動きを慮らなかったばっかりに、自分の心の話ばかりしてしまう場合があります。そこには悪気はありません。でも、結果として、相手をないがしろにしてしまう場合があります。

例えば、「忘れ物したね」と言われると「忘れ物をしてしまった自分は本当にダメだ」とパニックになり、相手の「忘れ物をしたね」といったことについて、対応できなくなる、というような場合です(丸山さとこさんのツイートを参考にした例です)。

また、こういう場合でなくても、自分のことで頭がいっぱいになって、相手がどんな気持ちでいるか、想像する余力が失われている場合、また、もともと、相手のことを想像するという発想がない場合があります。

そうした発想なく、生きてこれてしまった人が、大人になってからそのことに気づくのは、確かに難しいことです。

それを指して、心がないと言っているのかもしれません。それは、そのご夫君が自己中心的な考え方をしていて、妻の心の動きを想像することをさぼっているから起きるのだと思います。幼稚なのだと思います。

男性の発達障害の人は、周りに慮ってもらうことに慣れていて、自分が慮る立場にあることが少ないように思います。

おおよそ一般に男性は、おぜん立てされていることに慣れています。おぜん立てされているから、人の心の動きを些末なことだと考え、そこに割くべきコストを割かず、その分の力を自分のしたいことに向けているのだと思います。そうすると、一見成功する場合もあるのだと思います。そして、不幸にも相性の悪い者で結婚してしまうのでしょう。彼らは自分の心の動きには敏感です。心があるからこそ、利他的になれず、利己的なのだと思います。

 

ASD同士では共感できる

https://news.mynavi.jp/article/20141111-a322/ (LLLさん紹介ありがとうございます。)

 

この記事のように、ASD同士では共感があるのではないかという研究があります。定型同士でもそうでしょうが、絶対共感できるという意味ではありません。

発達障害同士でもこいつは絶対許せない意味がわからないし大嫌いだということもよくあります。

個人的なことですが、私自身発達障害で、一緒に暮らしている人も発達障害です。その二人の間には、冗談もあれば、けんかもあります。けんかというのは、心があるから起きることだと思います。

普段、悲しかったら「悲しいね」と慰めますし、嬉しかったら「嬉しかったね」と一緒に喜びます。

当たり前のことですが、ASDにもいろいろな人がいて、人の言うことを素直にうのみにしてしまう人、自分のことばかりになる人、相手のことを考えたいけれど、パニックで心の容量がいっぱいになっていて、相手のことを考えるのが不可能になっている人などバリエーションがあります。

自分の場合

私は、自分のことしかわからないのですが、私の場合、相手の感情はできる限り尊重したいと思っています。思っていますが、できないこともあります。

それは能力的なものだったり、体調の問題だったりします。

私は、自然に感情を読み取ることが、多分下手なのだと思います。多分と留保をつけるのは、他の人がどれだけ自然に苦痛なくそれをしているのか、想像の域を得ないからです。

私は人と会うととても疲れます。それは感情を読むのに頭を使うからです。

耳の不自由な人が唇を読むのに似ているかもしれません。

 

 

私は、相手の心を想像するときに、時間がかかる場合があります。人と接するときには頭がフル回転です。噂によると定型発達の人はそうしたことが自然にできるそうですね。そこは違うのかもしれません。

でも、時間がかかっても、想像することはできます。また、心の成長が遅いのは自分でもわかります。だから、なるべく、自分の感情を自己モニタリングするようにしています。相手が驚かない範囲で表現して、すり合わせする努力をしています。自分がどう思っているのか伝えなければ、相手もどうすればいいのかわからないだろうと思うからです。

また、相手の言うことを聞いて、表情を観察します。それによって、相手の背景を推測して、どうふるまえばお互いの心を痛ませないか、考えることができます。

 

 

例えば、私たちの家でも、「頭が痛いね」というと「私も」みたいな会話があります。そうなんだ、しんどいね、という共感が省かれています。

でも、そこに「そうなんだ、しんどいね」と言いたい気持ちはあります。言ってほしい気持ちもあります。

ただ、それを言い忘れてしまうのです。相手への「そうなんだ」とかける言葉への優先度が低くなりがちだということです。また、この場合だと、二人とも頭が痛かったら、気圧のせいかもしれないと原因を考えることができると考えて、そうなんだ、を省くことがあります。

そうしたとき、頭が痛い、といった側には不快さが残る場合があります。私も不快になります。だから、気を付けて、「そうなんだ、しんどいね」とはさんでから、「私も頭痛い」というようにしています。

 (クッション言葉をいってほしいのに、言ってもらってるだけで自分は言わないだと一方的にクッションを奪ってるのと同じなので、暴力に近いと思います。

また、片方がクッション言葉を言ってもらってるのに気づかないでいるので、クッション言葉をかけている側はつらい、ということも往々にしてありそうです

心を込めてパターン化する

でもそれは「そうだね、実は私も頭が痛いから気圧の問題かもしれないね」とクッション言葉と推測を補えば済む話だと思います。

これは、パターン化できます。

パターン化することについて「心がない」という人もいますが、これは必要なことです。自動的にできないのだから、パターン化するのです。

心を込めて、と言われますが、その心の込め方がたぶん違うのだと思います。

あえて言えば、心があるから、心を込めて、パターン化して、記憶して、相手が不愉快にならないように努力するのです。

それは、相手のことを大事だと思っているから頑張れることです。

頑張っても、「自然にできないのなら、それは心がない」と言われると、心が折れてしまいます。

表現方法が違うので、差異を埋めるための努力が必要

発達障害の人には、自己モニタリングと、表現力が必要です。非定型と定型の人では、感情表現や、動作、しぐさなどの点で、細かい表現方法が異なるので、その異なり方を言葉で埋めるほかないと思うのです。

同じ世界で生きている以上、差異を埋めて、ともに生きることが必要です。

私から見ると、定型の人は、同じ傾向の人同士で、細かい差異を埋めるための細かい言葉遣いが足りていない、自己モニタリングして自分の感情をコントロールすることが足りていない、と見えることがあります。そのため、誤解が発生していると思います。

定型の人同士でも、けんかやいざこざが起きるので。

 

 

なぜそういうことが起きるのかというと、それは、同じような特性の人とは言葉がなくても通じるという錯覚や誤解があるからでしょうし、おそらく、自然な感情の発露をそれほどとがめられないからなのだと思います。

私の場合は、もしも、自然に感情を表現すると、人に対して異質な印象を与えるでしょうから、多少調整しています。ときどき、表情も鏡を見ながら練習しています。言葉なしでは、通じませんし、感情の発露はコントロールすべきものです。それがうまくいっているかはともかくとして。

定型の人も、発達障害の人がしている工夫を取り入れたら、もっとよく人と対話できるようになるかもしれません

心を取り出すことはできない

私は読書をしたり、映画を鑑賞したりして、涙が出ることがあります。涙が出るからと言って、心があるとは言えないかもしれません。心を取り出してみることはできないからです。でも、それは定型の人も同じです。

定型の人も、「心がない」と言われたら傷つくのではないでしょうか。

初めて心がないと言われたとき

私が初めて心がないと言われたのは、高校生の時です。それは、手術の前の日でした。緊張のせいか、熱が38度あったので、お見舞いに来ていた祖母に「申し訳ないけれどしんどいから早めに帰ってほしい」旨伝えたところ心がない、非情だと言われたのです。

私は驚いて、それ以来その祖母に会うことはありませんでした。

 

ただ、言い方の面で、私に問題があったのかもしれないと思います。

私は子供のころ、表現方法が未熟で、相手の気を悪くしない断り方をまだ覚えていませんでした。覚えていたら避けられたミスだと思います。

 

人が「この人には心がない」というときは、「自分をないがしろにされた」と感じた時だと思います。

人をないがしろにするのは、心がないからではありません。

想像力を鍛えておらず、幼稚だからです。

 

 

つまり、言い方に問題があるからと言って、心がないと考えるのは性急なのだと思います。

この場合、心無い言葉をかけたのは祖母だと思います。心があっても、心無い言葉をかけることはできます。彼女には心があるから不愉快だと思い、私に心がないといったのでしょう。自分の心境を慮らなかったから、非情だといったのではないかと思います。

私にも心があります。でも、ないと言われました。そうしたらこの悲しさ痛みはどこから来ているのでしょうか。彼女も、私に一番ダメージが与えられる言葉を選んだのでしょう。それは、私に心があることを、あてにしていたからです。本当に、私に心がないと思えば、そんなことを言っても無意味なのだから、言わなかったでしょう。

実は、彼女は私に心があると知っていて、そのうえで心がないといったのです。

タイプが違うと同調しにくい、けれど、それは改善できる

定型の人と、非定型の人とは、表現方法が違います。非定型の人にも共感があります。

でも、タイプが違うのでしょう。

非定型同士では共感できる場合があります。もちろん、人によってはこいつなんなんだ、ということもあります。でもそれは発達障害ではない人にも同じようにあることだと思います。

脳のタイプの違う者同士は、同調しにくい、そういう相性があるようだ、そのくらいの言い回しにしてほしいと思います。そうしてもらえたら、心がないだとか共感がないとか言われるよりもずっと楽だと思います。また、そうした言い回しならば、断絶せず、お互いの差異を埋める努力ができるのではないでしょうか。