****中絶に関する話題です******
わたしは、六年前に妊娠した。
経緯は、電子書籍にも書いたけれど、また書こうと思う。
今日は、精神状態が悪く、昔のことを思い出す。
ずいぶん、買い物をしてしまった。でも、今日一日を、それで生き延びられるならそれでいい。わたしはそういう風に思えるように、ようやくなった。
六年前、わたしは、会社帰りにつけられて、大けがをして入院した。
犯罪者は、被害者をコンビニで物色し、わたしをつけて、羽交い絞めにし、首を絞め、叫ぶなと言いながら私を殴って、物陰に引き込もうとした。
それでも、わたしは、大声を出すことができ、また、外に出てきてくれる人がいて、命は助かった。
犯人は逃走したが、通りすがりの男性が追いかけて捕まえてくれた。
その時には興奮状態で気づかなかったが、念のため、と救急車に乗り、痛くもかゆくもなかった左腕の神経が切れていることを、医者が発見してくれた。
すぐに見つけないと、今でも左腕は全く動かなかったはずだ。
彼は、専門医ではなかったが、本を引っ張り出しながら、丁寧に触診し、壊れた神経を特定して、適切な処置をしてくれた。
わたしはそのまま、つまり、襲われたときの服装のまま、緊急入院した。
着替えも何もなかった。
家族には、きっと責められる、と思って、病院から連絡をするのはやめてほしいといった。しかし、次の日、母に連絡が行った。
母は、その三日後に来た。
一週間後、退院するときは、一人だったので、警察の人が気の毒がって、わざわざ、荷物も一緒に家まで送ってくれた。
家に帰って、一人になると、わたしは、家の中で一人でいることが怖くなった。
暗闇も、何もかも怖く、物音におびえた。
次の日、会社に行ったが、手が震えて、座っているだけで涙が出て、とても仕事ができる状態ではなかった。手が震えてしまった。
早退を申し出て、それから、精神科で診断書を書いてもらい、休業することにした。
わたしは、話し相手がいなかった。性犯罪の前科を持つ犯人に襲われたことを、人に話すことが恥ずかしかった。
それで、インターネットに依存した。
そこで、知り合った男性と、食事をした。
一か月後のことだった。
二回目の食事のあと、わたしは、ひとりで電車に乗ることができなかった。フラッシュバックで、過呼吸が起きた。
そのまま、男性の家に連れていかれて、二度と家には戻れなかった。
わたしは、二十歳のころから、精神科にかかり、ずっと薬を飲んでいた。
PTSDで、家の外に出ることがそもそも難しかったので、男性の家で軟禁状態となった。わたしに貯金があることを知った男性は、わたしと結婚するといい、ヤマトの人がたまたま来たからと言って、婚姻届けの保証人になってもらい、わたしにもサインさせた。
わたしは、自分の薬を断薬させられた。
そして、彼が飲んでいた統合失調症の薬を、かなりの量、飲まされた。
二十時間以上、昏睡から目覚めなかった。
目が覚めたとき、「あ、生きてた」と言われた。「死んだかと思った」と。
断薬は、とても危険で、また、犯罪に遭った直後は、ただでさえ、判断力もなく、無力だったので、わたしは、そこに適応することで生き延びようとした。
その男性は、わたしが会社員だという理由で、クレジットカードを、インターネット経由でたくさん申し込んだ。わたしの身分証明書のコピーは持っていたし、わたしの名前で、わたしの委任状を偽造して、金融機関にもっていった。
金がない、と言われて、金融機関に連れていかれ、お金をおろさせられた。嫌だ、というと、罵倒されたり、暴れられたりし、お金を渡すと頭をなでられた。
逃げてからも、クレジットカードの支払いは、わたしがしなくてはならなかった。
使ったのは、もちろん、わたしじゃなかった。
男性は、わたしが経済的DVをした、と主張した。
一か月で、わたしは妊娠した。
男性は、妊娠していても、おかまいなしに、レイプしたので、切迫流産で、入院することになった。セックスの様子を、インターネットに書かれた。
わたしは、死にたいと思っていた。
つわりがひどく、えづくと、そのことも責められた。
産婦人科で、保健師さんがやってきて、「今ならおろせるけど、どうする?」と聞いてきた。そのとき、わたしは、ようやく、わたしが今おかしいことに気づいた。
携帯電話も、通信手段も、基本的に取り上げられていた。
男性が留守の時に、友達に連絡したら、家を出ろ、と言われた。
怖かった。追いかけられたら、どうしようと思った。
ほとんど無一文のまま、着の身着のままで逃げた。
かくまってくれる人がいた。
その人は、わたしの状況をよく知らないまま、受け入れてくれて、夫婦喧嘩だと思っていたので、男性に連絡を取った。それは、全然責められるようなことじゃなかった。
でも、男性は、その人に対して「放火してやる」「誘拐したな」「家族を殺してやる」「夜道に気をつけろ」と言った。会社にも乗り込まれた。
それで、会社に復帰する道は断たれた。
会社とのやり取りも、わたしの名前でメールアドレスを取って、わたしの代わりにメールを打っていた。
一度、その人の家の近くまで、男性が来てしまったので、会った。そのとき、また、レイプされて、切迫流産になった。
警察に行って相談した。
保護機関を勧められた。
面接を受け、その二日後に保護された。
やっと、一息付けた。
子供をどうするか、考えなくてはいけなかった。
すでに胎動があった。
産みたくて産みたくて、毎日産みたいと泣いていた。
フランスに逃げるか、生活保護で、産むまで頑張って、それから、働こうか…と思った。
でも、男性が、一生、わたしに付きまとうことを考えた。
子供が誘拐されたり、金づるにされることも、十分考えられた。
下手をしたら、わたしともども、殺されるかもしれないと思った。
それで、中絶することにした。
人工死産、という方法で、陣痛促進剤を打ち、本当の出産と同じように死産するやり方だったので、三日かかった。まだ、子宮口が柔らかくなる前だったので、物理的に処置をする必要があった。激痛だった。陣痛もしんどかった。
すでに安定期に入りかけた時期でおなかも大きかった。
わたしは、そんな処置をしながら、もし、今、わたしがやはり産むと言ったら、産めるんじゃないか、と思いながら、処置を受けていた。そう思わないと、やっていられなかった。
処置を受けながら、弁護士に連絡とったり、役所の担当の人と連絡を取ったりしていたわたしは、泣いて泣いて、もう、生きていたくないと思った。
すまない、と思った。
でも、婦長さんが、子供は苦しまなかった、外に出てきた瞬間に、呼吸ができなくなって、苦しまずに空に行ったよ、あなたが幸せになることが一番だ、と言ってくれた。
あの人のことは一生忘れない。
わたしは、自分でも知らないうちに、病院内をさ迷い歩き、新生児を見た。
美しかった。
自分の赤ちゃんとも、お別れすることができた。触れた。
婦長さんたちは、小さな箱に、花をたくさん入れてくれた。
死産なので、届を出して、火葬する必要があった。公務員の人が、親身になって、代わってくれた。
それから、いろいろなつらいことがまだたくさんあった。
離婚が成立するまでに、一年以上かかった。
離婚の条件で、DVはなかったこと、損害賠償を相手に要求しないこと、誰かに、話さないことがあり、書面にした。
ところが、男性は、離婚成立の次の日に、死産届をインターネットにアップした。
男性は、わたしの実名、写真、親の名前、職業、そういうものをインターネットに書いた。
一方的だったのに、インターネット上の人は、わたしが、男性を誹謗中傷しているといっていた。わたしは、逃げてから、インターネットを一切していなかった。
離婚してからも、つまり、逃げてから三年間、一切インターネットをしなかったのにも関わらず、インターネット上では、わたしがDVをでっちあげ、印象操作をした、ということを言う人がいた。
家に押し掛けることはなかったものの、嫌がらせはあった。
わたしの父を、裁判で訴えた。
わたしを、堕胎罪で、刑事訴訟にかけようとした。
わたしに、脅迫状を書いて、送ってきた。
わたしの知っている現実とはかけ離れた現実を、男性は持っていた。
そして、今は「冤罪被害当事者」を名乗っている。
そのせいか、わたしは、あのとき、選択したことが、どうしようもなかったのだ、と言い聞かせやすくなった。
胎児の人権を語る人や、堕胎は人殺しだ、という言説を見るたび、心がばらばらになりそうになる。
わたしには、中絶する権利も、幸せになる権利もあった。
それは、知っている。
でも、産みたかった、という悲鳴が、今でもこだましている。
わたしは、ようやく、また、子供を授かった。
この子は、絶対に、あの時の代わりの子じゃない。
わたしのところに来てくれてうれしい。
でも、わたしのところに来てしまったせいで、不幸になるかもしれない、そう思うと怖い。
子供を産むことは、親のエゴだ。
だから、せめて、この世に来てくれることを歓迎したい。
子供を幸せにするのは、わたしの役割じゃない。そんなおこがましいことは思えない。
人生は、その人のものだ。
子供自身が、つかみ取る幸せを尊重して、守りたい。
わたしは、その手伝いをしたい。
ここまで読んでくれた人、ありがとう。
中絶に関しては、いろいろな、考えを持つ人がいるのは知っている。
でも、あまり、中絶を選ぶ人を責めないでほしい。
どんなにカジュアルに中絶しているように見える人でも、その人が受けた負担は、絶対にある。そして、その人の人生は、その人のものだ。
わたしは、あのとき、中絶した。
それが、ほかの人から見て、正しいのか、正しくなかったのか、それは、わたしには、どうしようもない。
でも、わたしは、それを選んだ。今も生きている。死んでいたかもしれない。
正しくないことをたくさんした。
あの男性のもとに行ったことを「どうして」「わかるはずでしょう」と、もう、たくさん言われた。
それがつらかった。
正しくないことを繰り返して、でも、わたしは今も生きていて、些細なことを幸せだと思う。
こうして、昔のことに振り回されて、それがなければどんなによかっただろうと思う。でも、それでも、わたしは生きている。生きていてよかったと思うこともある。