双極性障害・ASD・ADHD

生活上の双極性障害への工夫について

躁鬱でも決断しなくてはいけないときの工夫

今日は病院に行きました。

最近元気だから躁状態かなと心配していたのですが、ただ元気なだけじゃないかということでした。

今がゼロ地点だからそれを覚えていて、ニュートラルな自分を覚えておくように言われました。

今は元気で落ち着いていてつつましい気持ちです。

 

躁状態の時の気持ちは、いろいろなことをどんどん思いついて、頭を衝動に支配されていて、思考の方向を強制されているような気がします。

とんでもないことをしているときにも、冷静に観察している自分もいて、でも、その時分はなすすべもなく土砂災害で流されていく自宅を見ていくような悲しさと諦めと叫びたいような気持でいます。

鬱の時には、絶望の中で寝ていて、何を見聞きしても悲しくなり、自分はダメなのだ、という方向に思考を強制的に持っていかれているような気がします。その強制力の源が病気なのです。

 

躁状態でも鬱状態でも、思考を病気によって制限されて、考える方向を強制されているような感じがします。

 

今は、自分で躁状態じゃないかと、心配しているという時点で躁じゃないと言ってもらえました。

本当にかっとんでいるときには、躁状態じゃないか心配するゆとりがないということでした。

 

最近工夫していることは、記録を取るということです。睡眠時間と気分のグラフ、日記は欠かしていません。

 

日記には、何があって、どんな気持ちになり、どうしてそうなったのかを分析している部分と、いいことがあったならそれを書くようにしています。

自分では分析が好きなので、病気という状況を観察して自分がどんな風か確認しているのがおもしろく思います。

 

最近は大きい決断をするために、調べたり、デメリットメリットを比較したりと準備をしているという話をしました。

デメリットメリットは、両方とも書きだして、数の多いほうを採用するという手法を取るので、大きな決断で失敗したことがありません。

 

選択というのは、資源の割り当てです。

資源というのは能力と時間です。

能力と時間をどのくらい振り分けるのか決めて、そのあと悩まないということが大事です。だから、決断の前に悩みます。あとからこうすればよかったと思ったときは、デメリットメリットを書きだした紙をもう一度見て、これしか選びようはなく、選択は正しいのだと確認するためにも使います。

 

 

受験でも、悩むということに能力と時間のリソースを使い、結果として受験に失敗してしまうということがあります。

人間の能力と時間が有限である限り、何に集中して配分するかの決断はしなくてはなりません。

 

 

私が躁鬱になってから、普通の状態というのはあまりありませんでした。

躁状態でも鬱状態でも大きい決断はするなということが一般に言われていることです。

でも、生きている限り、大きな決断を避けることはできません。

そうした時にできる工夫というのは、記録です。

記録をして、理性で決断すること、相談することが大事です。

私が躁状態になって「かっとんで」いるときには、人の話を聞かないし、不安でもないです。そして、どういう状態か記憶できません。何をしたかはわかっていても、どういう気持ちだったのかわからないのです。

そういうときに記録は役に立ちます。自分が今鬱なのか躁なのかわかる、それが一番大切なことです。

それによって対処法が生まれ、工夫する余地ができます。

 

躁の時にはどうしようもないのですが、前兆に気づいたら慎重に、鬱の時には休み休み、気分の落ち込みをやり過ごすということが大事になります。

 

去年の今頃はどうだったか、おととしはどうだったか、それを分析することによって、自分の波のサイクルがわかります。切り替わったタイミングで何が起きたのか、どんなストレスが負担になっていくのか、そういうことも分かります。

 

今気分が落ち着いているのは薬の影響と、自分で工夫していることと両方があるようです。

薬は、いわゆる「かっ飛んでいる」状況にならないように抑えていてくれるのだそうです。鬱と躁の幅を狭めていてくれるそうです。

一日の中の気分の上下も悩みで、それも病気のせいなのですが、それは、認知を変えていくことで、ある程度やり過ごし方を見つけられると言っていました。

 

前回は、認知を変えると言われたときに、「自分を否定された、今の考え方がダメだから苦しいんだと言われたのだ」と思ったのですが、今日は「認識の仕方を変えたら今よりも楽になるのだからありがたいな」と思いました。

その認識の差も、病気と健全の違いなのだなと思います。