双極性障害・ASD・ADHD

生活上の双極性障害への工夫について

性格なのか、病気なのか、どっちかわからない

病院に行ってきました。

双極性障害発達障害を患っているのですが、何が素の自分かわからないのです。

 

今回相談したのは

  • 勉強を教えてもらうとキレてしまう、パートナーをやっかんでしまう
  • 千円の物を多数買ってしまう、悩まずに高額の商品を買ってしまう

ことの二つを相談しました。

 

繰り返し勉強をするのが楽しいか聞かれたんですが、別に楽しくはないです。でも、しないといけないことだと思っていて、毎日しています。

本来は、楽しいからするみたいで……。

でも、楽しくないんですよね。楽しくないならしなかったらいいと言われたんですが、それだと自分がダメになるような気がします……。

 

パートナーは勉強が好きなうえに得意なので、そういうことに劣等感を感じます。彼はできないことが少ない。細かいことではできないことが多いけど、人生で大事なこととか、お金を稼ぐ能力とかは高い。

「劣っていると思って過ごせばいいんじゃない?自分より優れた人と一緒にいるほうがいいじゃない。自分より劣った人としか付き合わないのはやばいよ。勝ち負けで考えているのは性格だよね」

と言われたのでそれはそうかと思ったんですが、なかなか「自分は劣っている」と思って生活できなくないですか?

そもそも、私は何かを楽しいと思ってやっているんだろうか、と思うんです。

ブログを書くのは楽しいのかな……。わからないなー。楽しいって何だろうね。

昨日イチゴ狩りに行ったのは楽しかった!!!

ので、楽しいという感情はあるみたいだ。

心理士さんによると、楽しいという感情は、強い感情だから楽しかったら覚えているはずと言われました。

最近は病状が落ち着いているので診察時間も長くとってもらっているものの、人生相談みたいな感じです。

 

 

千円の物を買うのは多動、高額なものを迷わず買うのは、躁、勝ち負けにこだわるのは性格と言われましたが、そんなものなんだろうか。

今焦点を当てられてるのはASDというよりもADHDのほうで、そういえば、この前も鍋の火をつけっぱなしにして忘れていたので、命にかかわるのはADHDのほうなのかも。

悩まないっていうのは、躁だなーと思います。自分でも。

今は躁じゃなくて鬱なんだと思います。動けてるけれども毎日十時間は寝ているので、鬱気味。それでも買い物はしたいからどうなんだろう。この前狙っていたコートは売り切れてしまって、今でも悲しい。

「何でもは買えないものだ」と言われました。

何でも買いたいんだよね。

「でも、そうすると家の中がガラクタだらけになるでしょう。ガラクタに囲まれて生活すると不衛生だし、落ち着かないよ。断捨離したほうがいいですね」と言われました。

というわけで、今日はいらないコスメを捨てました。こまごまとしたものでも積み重なるとけっこうな量になります。

 

気に入ったコスメを取っておく習性があります。もったいないと思っちゃって、そして、古くなって劣化してしまいました。悲しい……。

コスメの消費期限は数か月らしいんですけど、そんなに使いきれない。

使える量をそれぞれ一つだけ買ったほうがいいんでしょうね。

 

この間、上司に「おっとりしている」と人に紹介されたんですが、自分ではおっとりしていると思えないのです。

子供のころははきはきしていたような気がするし、怖いもの知らずだった気がしますけれど、大人になった今は、怖いものはあるし、はきはきもしていないです。今は攻撃的じゃないと思います(たぶん)。

 

躁状態でガンガン行っていると、局地的にへんなカリスマ性みたいなのが出ちゃって、人の人生も自分の人生も狂わせがちなので、そこはコントロールしたいなと思います。

 

 

 この前手術したので、まだ疲れています。大したことのない手術でも、麻酔をして切ったり縫ったりすると、体にダメージが残って、傷以外にも体がだるいなと思います。

そのせいで、鬱気味なのもあると思います。

 

精神障害に必要なのは、言葉と余裕

私にはできないことがある

私にはできないことがある。

できないことはできないままか、やってもすごく疲れるからやっぱりできない、という種類のことで努力をしてもしなくても結果は変わらない、というようなものだから、それを障害と呼んでいる。
それは足が悪くて歩けない人が歩ける努力をするのに似ている、かもしれない。知り合いに関節がじわじわ固まって動けなくなる病気の人が二人いる。一人は、いつも歩くように努力しているけれど、やっぱりいつかは歩けない日が来てしまう。努力はすごくしている。だから、歩ける状態が続いているけれど、必ず歩けなくなる日は来る。歩くことを手放せなくてずっと痛みに耐えながら歩いている。
もう一人は早々にあきらめて車いすに乗った。そして、行動範囲が広がって、障害者仲間と沖縄のダイビングに行ったそうだ。
どちらがいいかとかそういうことじゃなくて、どちらにしても、失うものはあるし、できないことはある。

頑張って歩いている人には、障害と言っても精神疾患のほうがうらやましいと言われた。自由に歩けるからって。私は今でもどちらがましなのかわからない。私は歩けることを嬉しいなと思って歩いている。私は、頭の中が自由なのは体験したことがないので、どちらがましなのかわからない。

 

私は精神障害を、発達障害双極性障害の二種類持っているのだけど、周りから見ると障害者手帳を取らなくてもいいんじゃない?とか、障害者に見えない、という人もいた。(障碍者雇用の担当だった人に打ち明けたときには、言われてみたらそうかもしれないと言われたけどそれはレア)
障害者手帳を持つと「本当に」障害者になっちゃうよ、というような人もいた。でも、「本当に」障害者なんだよね。障碍者手帳を取っても取らなくても。

障碍者って、書くべきだという人もいるけれど、私は、障害者のままでいいやと思う。だって、自分にとって見たら、本当に障害なのだもの。

私は障害のない状態を経験したことがなかったから、自分が他人と比較して苦しいかどうかはわからなかった。でも、コンサータを飲んで疑似的に健常な世界を見てみたら、ああ、自分には障害があるのだと得心した。

障害を言い訳にするな、というツイートをTwitterでみたけれど、言い訳いわけじゃないんだよね。障害なんだよね。障害を障害と言っているんだよねたいていの人は。

みんな目で見えるものしか理解できない


みんな目で見えるものしかわからないから、足が悪くて走れないことと、脳に問題があってできないことがあることが同じだと思えないんだろう。

私の場合、脳に問題があるので、以下のことがうまくいっていない。それは、自分が思っていることと体がうまく協調できないこと(ASD)、感覚過敏(たぶんADHD由来)、気分をコントロールできないこと(双極性障害)、体を通した情報への処理に負荷がかかること、などがあげられる(まだいっぱい上げられるしそのリストは長い)。そのうえPTSDというか、トラウマのせいで大人の男性が恐ろしいので、彼らが大勢いるような場所ではうまく機能できない。


工夫はいろいろしているのだけれど、工夫をして人並み以下。そして、マイナスをゼロに近づける作業なのですごく疲れる。最初からゼロで、ゼロのままでいる人とは違う。だから、「障害があるからできない」という言い方になる。私は、障害を個性だとも思わない。障害は障害。克服すべきこととも思わない。工夫したら生きやすくはなる。だから個人的には工夫する。ただの障害。いい悪いじゃなくて、不便。私の障害は、社会がどんな風に変わったとしても残ると思う。よく目が悪い人は眼鏡をするでもそれは障害とは思われない、って話が出て、だから障害というのは社会の不備なのだというけれど、社会がどうなっても感覚過敏が減るわけでもない。

その言い方を言い訳だと取る人はいるんだろう。
障害を言い訳にして、やるべきことをしていない、って思うのかな。
でも、障害は障害だから、できないことはできないんだよ。
少なくとも現代ではそうだし、今は現代だから、どうしようもない。

人は必ず年老いて、老いれば必ず衰える。老いを言い訳にしてあれができないこれができないという人を「言い訳するな」というかしら。
言わないよね。でも、同じなんだよ。機能しなくなるってことだから。最初から機能してないか、後から機能しなくなるかの差があるくらいで。まあ、機能していた時期があるというのはうらやましいけれど。

障害はいいわけだという人はその言葉に縛られるんじゃないだろうか。自分が老いたり、周囲が老いたりして、障害を負った状態になったとき、自分の言葉に恥じないで過ごせるんだろうか。案外、自分だけは特別扱いで、「障害を言い訳」にするんじゃないかと思うのだけどどうだろう?

工夫しなきゃいけないこと自体がすでにマイナスだ


そう、障害ってある意味では「ただの能力不足」なのかもしれないね。
ただの能力不足を工夫するべきだっていうならね、その能力不足がもともとない人は何も工夫がいらなくて、いいなって思う。
誰でもその人なりの苦労があるんだろうけど、ある特定の能力に関してはそれがないのだから(だからその点では健常者ってことなら)、それは楽じゃないかって思う。
正直に言うと「私の能力の凹の部分に関して言えば、健常者は楽しているな」と思う。その人にとってゼロのことでも、私の基準ではそこはプラスなんだよね。

まー、そんなんでも、私のことをうらやましいという人はたくさんいる。うらやましいというかずるいと思っている人がいる。
今は困窮していないからだと思うけれど。困窮していた時でもねたまれたからなんだっていいんだろうな。

それこそ「努力した」って思ってほしいけれどそうはならない。
例えば、私が努力していい"御身分"ですね、って思ってる人はいるだろう。それになったことを、「努力したんだから素晴らしいですね」なんて、いう人とても少ないもの。
じゃー、私が「言い訳しないで努力していい"御身分"になれよ」というのも不毛じゃないだろうか。

障害を言い訳にするな、っていう人は、障害を理由に援助されることをずるいと思っているんじゃないかと思うことがある。配慮されていい御身分ですね、みたいな。介護支援や、障害者年金をずるいという人たくさんいるものね。それって、障害を言い訳にしてお金もらってるんじゃねーよ、みたいな感覚なんだろうか。私は障害者年金もらってなくて、介護支援だけ受けているけれどそれをずるいと言われたことがある。

障害者が迷惑かけないようにするのって死ぬしかなくない?

障害を言い訳するな、っていうのはどんな状態か考えているんだけど、かかわるなら迷惑をかけるな、って意味なのかなと思った。
でもそれって、障害者を迷惑だと思ってしまったら、障害者は「迷惑」だから、「隔離しよう」につながっちゃうんじゃないかな。
障害者を隔離しようの考えが行き行く先は、あの悲劇だったのだけれど、あれを受けいれるのだろうか。
精神障害者を社会から隔離した歴史はまだ遠くないので、座敷牢に閉じ込めた結果、どれだけ本人が苦しんで人生を奪われたのか今でも生々しいのに。
障害を「言い訳」にできなかったら、死ぬしかないんでほんとに。なんでかというと、できないことを許されないってことは、自分を許されないってことなので。
そういう世知辛いことはやめましょう。発達障害精神疾患も迷惑っちゃ迷惑で、人に負担をかける障害なのは間違いないけど、でも、いわゆる健常者がどれだけ障害者に迷惑かけているかって言ったら。迷惑っていうか爪弾きだったり、いじめやからかい、嘲笑をかけられた迷惑とも言える。


虐殺もあったしね……。そういう射程の話でもあると思いました。飛躍かもしれないけど。

 

手間暇かけてサポートしてくれるならそりゃーありがたい


 

ただ、このツリーを最後まで読むと、この人は、手間暇かけることを嫌がっていないのです。

 

大体の人は、この手間をかけること自体を「迷惑だ」というので、そういう意味では、「言い訳するな」と言っているけれども、手間とサポートをしている分、近くにいてくれたら助かる障害者は多いだろうと思った。


手間がかからない人のほうが雇いやすいもんなー。それってどうにかしないといけないことだけれど。それが通るとあらゆることが通ってしまう。



それでもサポートの対応してて、申し出を聞き入れて実行してるのは珍しい。



 

結構大変だもの、お茶の入れ方を具体的に指示出して、ここまでお湯を入れるの線を書くような工夫をすることは(ツリー参照)。

 

もしかしたら、「障害を言い訳にしないで、どうしたらいいか教えてくれたら、サポートできるのでお互いいいよね」という話なのかもしれないね。


適応できない、どうにもならない人もいるから必ずしも当てはまるわけじゃないのはわかってほしいけれど。

 

私は、支援につながるまで、自分がどういうサポートを受けられるのかを知らなかったし、工夫をする余地があることを知らなかった。だからすごく大変だった。

工夫をする余地があることを知らないと、どういう風に工夫すればいいかまでも、たどり着かない。(でも、やっぱり感覚過敏については、サポートが入ったとしても、どうしようもない気もする)

ASDには心も感情もある

心がない、感情がないと言われる

 

よく感情がないだとか、心がないだとか言われるASDである自分のことですが、普通に心はありますので、そういう風に言われると悲しくなります。

定型の人に、そこは想像してほしい点です。心がないと言われたとき、相手はどんな風に感じるか、ということです。

心がない相手だと思っても、実は、心のようなものはあって、その人はこれを言われたらとてもショックを受けるのかもしれない、ということを予想してほしいと思うのです。

男性の発達障害の人の傾向への推測

特にカサンドラ症候群の方が「自分の夫は、ASDで、だから心がない。ASDには心がない」というようなことを言います。

でもそれは、ご夫君との相性が悪かったのではないかと思うのです。二人いれば同じくらいコミュニケーションに熱心にならなければ、うまくいきません。片方が頑張っても、もう一人にやる気がなければ、それは悲しくなるでしょう。

本当にお気の毒なことだと思います。

 

私もしてしまいがちなことなのですが、相手の心の動きを慮らなかったばっかりに、自分の心の話ばかりしてしまう場合があります。そこには悪気はありません。でも、結果として、相手をないがしろにしてしまう場合があります。

例えば、「忘れ物したね」と言われると「忘れ物をしてしまった自分は本当にダメだ」とパニックになり、相手の「忘れ物をしたね」といったことについて、対応できなくなる、というような場合です(丸山さとこさんのツイートを参考にした例です)。

また、こういう場合でなくても、自分のことで頭がいっぱいになって、相手がどんな気持ちでいるか、想像する余力が失われている場合、また、もともと、相手のことを想像するという発想がない場合があります。

そうした発想なく、生きてこれてしまった人が、大人になってからそのことに気づくのは、確かに難しいことです。

それを指して、心がないと言っているのかもしれません。それは、そのご夫君が自己中心的な考え方をしていて、妻の心の動きを想像することをさぼっているから起きるのだと思います。幼稚なのだと思います。

男性の発達障害の人は、周りに慮ってもらうことに慣れていて、自分が慮る立場にあることが少ないように思います。

おおよそ一般に男性は、おぜん立てされていることに慣れています。おぜん立てされているから、人の心の動きを些末なことだと考え、そこに割くべきコストを割かず、その分の力を自分のしたいことに向けているのだと思います。そうすると、一見成功する場合もあるのだと思います。そして、不幸にも相性の悪い者で結婚してしまうのでしょう。彼らは自分の心の動きには敏感です。心があるからこそ、利他的になれず、利己的なのだと思います。

 

ASD同士では共感できる

https://news.mynavi.jp/article/20141111-a322/ (LLLさん紹介ありがとうございます。)

 

この記事のように、ASD同士では共感があるのではないかという研究があります。定型同士でもそうでしょうが、絶対共感できるという意味ではありません。

発達障害同士でもこいつは絶対許せない意味がわからないし大嫌いだということもよくあります。

個人的なことですが、私自身発達障害で、一緒に暮らしている人も発達障害です。その二人の間には、冗談もあれば、けんかもあります。けんかというのは、心があるから起きることだと思います。

普段、悲しかったら「悲しいね」と慰めますし、嬉しかったら「嬉しかったね」と一緒に喜びます。

当たり前のことですが、ASDにもいろいろな人がいて、人の言うことを素直にうのみにしてしまう人、自分のことばかりになる人、相手のことを考えたいけれど、パニックで心の容量がいっぱいになっていて、相手のことを考えるのが不可能になっている人などバリエーションがあります。

自分の場合

私は、自分のことしかわからないのですが、私の場合、相手の感情はできる限り尊重したいと思っています。思っていますが、できないこともあります。

それは能力的なものだったり、体調の問題だったりします。

私は、自然に感情を読み取ることが、多分下手なのだと思います。多分と留保をつけるのは、他の人がどれだけ自然に苦痛なくそれをしているのか、想像の域を得ないからです。

私は人と会うととても疲れます。それは感情を読むのに頭を使うからです。

耳の不自由な人が唇を読むのに似ているかもしれません。

 

 

私は、相手の心を想像するときに、時間がかかる場合があります。人と接するときには頭がフル回転です。噂によると定型発達の人はそうしたことが自然にできるそうですね。そこは違うのかもしれません。

でも、時間がかかっても、想像することはできます。また、心の成長が遅いのは自分でもわかります。だから、なるべく、自分の感情を自己モニタリングするようにしています。相手が驚かない範囲で表現して、すり合わせする努力をしています。自分がどう思っているのか伝えなければ、相手もどうすればいいのかわからないだろうと思うからです。

また、相手の言うことを聞いて、表情を観察します。それによって、相手の背景を推測して、どうふるまえばお互いの心を痛ませないか、考えることができます。

 

 

例えば、私たちの家でも、「頭が痛いね」というと「私も」みたいな会話があります。そうなんだ、しんどいね、という共感が省かれています。

でも、そこに「そうなんだ、しんどいね」と言いたい気持ちはあります。言ってほしい気持ちもあります。

ただ、それを言い忘れてしまうのです。相手への「そうなんだ」とかける言葉への優先度が低くなりがちだということです。また、この場合だと、二人とも頭が痛かったら、気圧のせいかもしれないと原因を考えることができると考えて、そうなんだ、を省くことがあります。

そうしたとき、頭が痛い、といった側には不快さが残る場合があります。私も不快になります。だから、気を付けて、「そうなんだ、しんどいね」とはさんでから、「私も頭痛い」というようにしています。

 (クッション言葉をいってほしいのに、言ってもらってるだけで自分は言わないだと一方的にクッションを奪ってるのと同じなので、暴力に近いと思います。

また、片方がクッション言葉を言ってもらってるのに気づかないでいるので、クッション言葉をかけている側はつらい、ということも往々にしてありそうです

心を込めてパターン化する

でもそれは「そうだね、実は私も頭が痛いから気圧の問題かもしれないね」とクッション言葉と推測を補えば済む話だと思います。

これは、パターン化できます。

パターン化することについて「心がない」という人もいますが、これは必要なことです。自動的にできないのだから、パターン化するのです。

心を込めて、と言われますが、その心の込め方がたぶん違うのだと思います。

あえて言えば、心があるから、心を込めて、パターン化して、記憶して、相手が不愉快にならないように努力するのです。

それは、相手のことを大事だと思っているから頑張れることです。

頑張っても、「自然にできないのなら、それは心がない」と言われると、心が折れてしまいます。

表現方法が違うので、差異を埋めるための努力が必要

発達障害の人には、自己モニタリングと、表現力が必要です。非定型と定型の人では、感情表現や、動作、しぐさなどの点で、細かい表現方法が異なるので、その異なり方を言葉で埋めるほかないと思うのです。

同じ世界で生きている以上、差異を埋めて、ともに生きることが必要です。

私から見ると、定型の人は、同じ傾向の人同士で、細かい差異を埋めるための細かい言葉遣いが足りていない、自己モニタリングして自分の感情をコントロールすることが足りていない、と見えることがあります。そのため、誤解が発生していると思います。

定型の人同士でも、けんかやいざこざが起きるので。

 

 

なぜそういうことが起きるのかというと、それは、同じような特性の人とは言葉がなくても通じるという錯覚や誤解があるからでしょうし、おそらく、自然な感情の発露をそれほどとがめられないからなのだと思います。

私の場合は、もしも、自然に感情を表現すると、人に対して異質な印象を与えるでしょうから、多少調整しています。ときどき、表情も鏡を見ながら練習しています。言葉なしでは、通じませんし、感情の発露はコントロールすべきものです。それがうまくいっているかはともかくとして。

定型の人も、発達障害の人がしている工夫を取り入れたら、もっとよく人と対話できるようになるかもしれません

心を取り出すことはできない

私は読書をしたり、映画を鑑賞したりして、涙が出ることがあります。涙が出るからと言って、心があるとは言えないかもしれません。心を取り出してみることはできないからです。でも、それは定型の人も同じです。

定型の人も、「心がない」と言われたら傷つくのではないでしょうか。

初めて心がないと言われたとき

私が初めて心がないと言われたのは、高校生の時です。それは、手術の前の日でした。緊張のせいか、熱が38度あったので、お見舞いに来ていた祖母に「申し訳ないけれどしんどいから早めに帰ってほしい」旨伝えたところ心がない、非情だと言われたのです。

私は驚いて、それ以来その祖母に会うことはありませんでした。

 

ただ、言い方の面で、私に問題があったのかもしれないと思います。

私は子供のころ、表現方法が未熟で、相手の気を悪くしない断り方をまだ覚えていませんでした。覚えていたら避けられたミスだと思います。

 

人が「この人には心がない」というときは、「自分をないがしろにされた」と感じた時だと思います。

人をないがしろにするのは、心がないからではありません。

想像力を鍛えておらず、幼稚だからです。

 

 

つまり、言い方に問題があるからと言って、心がないと考えるのは性急なのだと思います。

この場合、心無い言葉をかけたのは祖母だと思います。心があっても、心無い言葉をかけることはできます。彼女には心があるから不愉快だと思い、私に心がないといったのでしょう。自分の心境を慮らなかったから、非情だといったのではないかと思います。

私にも心があります。でも、ないと言われました。そうしたらこの悲しさ痛みはどこから来ているのでしょうか。彼女も、私に一番ダメージが与えられる言葉を選んだのでしょう。それは、私に心があることを、あてにしていたからです。本当に、私に心がないと思えば、そんなことを言っても無意味なのだから、言わなかったでしょう。

実は、彼女は私に心があると知っていて、そのうえで心がないといったのです。

タイプが違うと同調しにくい、けれど、それは改善できる

定型の人と、非定型の人とは、表現方法が違います。非定型の人にも共感があります。

でも、タイプが違うのでしょう。

非定型同士では共感できる場合があります。もちろん、人によってはこいつなんなんだ、ということもあります。でもそれは発達障害ではない人にも同じようにあることだと思います。

脳のタイプの違う者同士は、同調しにくい、そういう相性があるようだ、そのくらいの言い回しにしてほしいと思います。そうしてもらえたら、心がないだとか共感がないとか言われるよりもずっと楽だと思います。また、そうした言い回しならば、断絶せず、お互いの差異を埋める努力ができるのではないでしょうか。

 

 

 

躁鬱でも決断しなくてはいけないときの工夫

今日は病院に行きました。

最近元気だから躁状態かなと心配していたのですが、ただ元気なだけじゃないかということでした。

今がゼロ地点だからそれを覚えていて、ニュートラルな自分を覚えておくように言われました。

今は元気で落ち着いていてつつましい気持ちです。

 

躁状態の時の気持ちは、いろいろなことをどんどん思いついて、頭を衝動に支配されていて、思考の方向を強制されているような気がします。

とんでもないことをしているときにも、冷静に観察している自分もいて、でも、その時分はなすすべもなく土砂災害で流されていく自宅を見ていくような悲しさと諦めと叫びたいような気持でいます。

鬱の時には、絶望の中で寝ていて、何を見聞きしても悲しくなり、自分はダメなのだ、という方向に思考を強制的に持っていかれているような気がします。その強制力の源が病気なのです。

 

躁状態でも鬱状態でも、思考を病気によって制限されて、考える方向を強制されているような感じがします。

 

今は、自分で躁状態じゃないかと、心配しているという時点で躁じゃないと言ってもらえました。

本当にかっとんでいるときには、躁状態じゃないか心配するゆとりがないということでした。

 

最近工夫していることは、記録を取るということです。睡眠時間と気分のグラフ、日記は欠かしていません。

 

日記には、何があって、どんな気持ちになり、どうしてそうなったのかを分析している部分と、いいことがあったならそれを書くようにしています。

自分では分析が好きなので、病気という状況を観察して自分がどんな風か確認しているのがおもしろく思います。

 

最近は大きい決断をするために、調べたり、デメリットメリットを比較したりと準備をしているという話をしました。

デメリットメリットは、両方とも書きだして、数の多いほうを採用するという手法を取るので、大きな決断で失敗したことがありません。

 

選択というのは、資源の割り当てです。

資源というのは能力と時間です。

能力と時間をどのくらい振り分けるのか決めて、そのあと悩まないということが大事です。だから、決断の前に悩みます。あとからこうすればよかったと思ったときは、デメリットメリットを書きだした紙をもう一度見て、これしか選びようはなく、選択は正しいのだと確認するためにも使います。

 

 

受験でも、悩むということに能力と時間のリソースを使い、結果として受験に失敗してしまうということがあります。

人間の能力と時間が有限である限り、何に集中して配分するかの決断はしなくてはなりません。

 

 

私が躁鬱になってから、普通の状態というのはあまりありませんでした。

躁状態でも鬱状態でも大きい決断はするなということが一般に言われていることです。

でも、生きている限り、大きな決断を避けることはできません。

そうした時にできる工夫というのは、記録です。

記録をして、理性で決断すること、相談することが大事です。

私が躁状態になって「かっとんで」いるときには、人の話を聞かないし、不安でもないです。そして、どういう状態か記憶できません。何をしたかはわかっていても、どういう気持ちだったのかわからないのです。

そういうときに記録は役に立ちます。自分が今鬱なのか躁なのかわかる、それが一番大切なことです。

それによって対処法が生まれ、工夫する余地ができます。

 

躁の時にはどうしようもないのですが、前兆に気づいたら慎重に、鬱の時には休み休み、気分の落ち込みをやり過ごすということが大事になります。

 

去年の今頃はどうだったか、おととしはどうだったか、それを分析することによって、自分の波のサイクルがわかります。切り替わったタイミングで何が起きたのか、どんなストレスが負担になっていくのか、そういうことも分かります。

 

今気分が落ち着いているのは薬の影響と、自分で工夫していることと両方があるようです。

薬は、いわゆる「かっ飛んでいる」状況にならないように抑えていてくれるのだそうです。鬱と躁の幅を狭めていてくれるそうです。

一日の中の気分の上下も悩みで、それも病気のせいなのですが、それは、認知を変えていくことで、ある程度やり過ごし方を見つけられると言っていました。

 

前回は、認知を変えると言われたときに、「自分を否定された、今の考え方がダメだから苦しいんだと言われたのだ」と思ったのですが、今日は「認識の仕方を変えたら今よりも楽になるのだからありがたいな」と思いました。

その認識の差も、病気と健全の違いなのだなと思います。

感情に左右されず理性で判断できるようになる

今の主治医に「感情で判断せず理性で判断するように」と言われています。

躁鬱だとそれが難しいのですが、躁の時に判断したことの結果をしりぬぐいするのは鬱の時の自分なのでそうしたいと思います。

 

前の主治医は今の主治医の先輩だったのでやっぱりそのことは言われてました。

その先生に教えてもらったワークで

「デメリットとメリットをそれぞれ右側と左側に書き出し、数で判断する」というものがありました。重要かどうかは〇と◎で区別しますが、数えるときには一つで数えます。

 

重要な判断をするときには欠かさずやっています。

 

簡単なことだとできていませんが例えば「服を買う」だと

メリット

・服を買うとうれしい

デメリット

・お金が減る

・場所が減る

なので、服を買わないという判断になります。それでも買っちゃいますけど、事前にどういうデメリットがあるのか洗い出せるとそのことに対処できます。

お金が減る→どうしようもない

場所が減る→ほかのものを捨てる

 

主治医は、一歩歩くと嫌なことを忘れると決めているような人で、そういうところがかっこいいなと思います。

 

自分の感情をどうするかは、決めることができます。

感情がわいてしまうことはどうしようもないですが、感情にどう対処するかは自分で決められます。

復讐するは我にありと思ったとしても、実際に復讐するかは別の問題です。

感情に任せて決断することは時には重要です。時間がない時には何かを選んでそれがいいものだと信じて突っ走らないと動けませんから。

でも、時間があって、メリットとデメリットを比較できるようなときには、数を比較するといいです。

そのメリットには感情を含めていいです。

そして、もし、どうしても「こちらにしたい」という思いがあったら、そちらの理由を頑張って考えるはずです。それが数の重みになります。

服を買うを例にとると、「どうしても服を買いたい」というときです。

でも、服が買えると嬉しいしか理由が思いつかないならメリットとデメリットは一対二ということになります(それでも買いますが)。

 

こっちになればいいなと強く思っても、それでも理由を絞り出せないときには、やっぱりそれはルールに則ると便利です。

できないことがあると過度に落ち込んでしまう

おととい診察の日でした。

私の今月の問題点は、「自分にとって一番悪い考え方を採用してしまう」ということでした。

特にできないことがあると、もう生きていてはだめだというくらい落ち込みます。

今日も、化学のわからない問題があって自分で自分の頭を殴ってしまいました。

とてもつらい。

家の中の雰囲気は最悪になり、私は家を飛び出しました。

勉強をするたびに、いちいちそうなるととてもたいへんなので、直したいと思います。

 

でも、直すのは、たいへんで、今でさえコントロールしようとしてすごく頑張っているので、さらに頑張るのは無理だとも思います。

 

 

訓練次第で考え方をいくつか自分に提案して、一番自分に甘いものを採用したらよいと言われましたが、そんなのはしたくないのが本音です。

自己憐憫だと言われればそうですが、まず、「お前の認知はゆがんでおり従って考え方もゆがんでいてダメでそれゆえ行動もだめである」と言われている気がするからです。

 

お医者さんに、月間の行動記録を見せたところ「勉強が多いね勉強好きなの?」と言われて、「わからないところがあるから自分はダメだなつらいなと思います」と答えました。私は何か好きなことがあるのかな……。今特に思いつかないな。

昔はあった気がするんだけど……。

わからないことできないことがあると、目の前が真っ暗になって呼吸も苦しくなるしとても不便です。

「自分に不利な考え方を採用しているね」と言われました。

先生からは、

「感情は暴れ馬のようなものだから、それを理屈で制御するように」と言われています。

自分に甘い理屈を採用することで、それに合わせて感情を作るということです。

正直に言えば、そういう風に言われるのも否定されているようでつらいのですが、はっきり言われないと治らないのでしょうがないのかもしれません。

 

自分を否定するようなことばかり考えて、それを採用して、そして悲しくなっているのか、悲しいから自分を否定するような考え方を採用しているのか、どちらだろう?

 

自分は感情の奴隷で感情に振り回されていて、自分の人生を侵食されているなと思います。

感性は自分のものだけど、感情は、強欲な支配者です。

こいつに支配されると手も足も出なくなって、人間関係もぼろくそになる。人生の選択肢も誤るし……。

ただ、これがないと、とっさの危険に反応できなくなるから、全然なくなっても困る。

理屈ばかりでも楽しくはない。

 

 

他にもいろいろ話したのですが、忘れてしまいました。

今月は、頓服をほとんど飲まずに済ませたので、ずいぶんよかったと思います。

また、仕事も増えているけれど、休まずかよえているのもよかったです。

心拍数と疲労の関係

鬱状態が長い。それについて考えてみた。

まず、秋になって一日一日の変化が大きい。
変化の割合が大きいので、それが堪えている。
日照時間や、気温の変化が体を疲れさせて、気分の変調を招いているのだろう。
そのため、室温を一定にするなどの工夫が必要だ。


ラピットサイクルが変化して、ここ3ヶ月ほど鬱が続いている。
日中、夕方にかけて、疲労により、自虐的になって、バカだからだめなのだ、自分は醜くてだめだ、と言い出す。
そういうときは心拍数が跳ね上がっている。
(心拍数の計測はスマートウォッチで行っている)

心拍数の計測がいいのは、精神的な動揺が客観的に把握でき、そのときに、我に返る効果があるからだ。

心拍数があがると、交感神経が刺激されて、カッカしてしまい、自律神経の乱れにつながってしまうそうだ。
リラックスの反対。
そして、疲れる。


疲れて鬱がひどくなり、悲観的になって、それがまた疲労を呼んでいることがわかった。


朝方の方が抑鬱的だが、夕方になると一日の疲れが出て、また悲観的になる。


私は勉強が趣味なのだけど、全然問題が解けなくなってしまい、自分がバカでどうしようもないくずだと感じてしまう。

私は怒りやパニックだけが血圧や心拍数を上げるのだとよそうしていたけれど、そうではなく、悲観的な考え、悲しみ、劣等感も体に大きな負担がかかり、身体的な疲労を呼ぶのだとわかった。


だから、今後、感情的な振り幅がでて、それが苦しかったら、時計で確認して冷静になりたい。